加藤平五郎翁之像

石碑・銅像・胸像(歴史上の人物)

令和7年(2025)5月9日(金) 三川駅~西三川遺跡群~長島牧場のところへ右折~松浦武四郎通過地~国道274号線~聖上御駐蹕之地碑~加藤平五郎碑 約10㎞

 本日の探訪ランの最後は、三川駅前の加藤平五郎氏の胸像だ。胸像の後ろに石碑があり、銅像再建協賛会の名簿の石碑と、発起人の石碑があった。石碑の裏に「昭和五年四月建」と刻まれている。以下は説明板の転載。現代文なので転載が楽だ。三川は三河の国からの由来なのだ。

【開拓功労者加藤平五郎】
 (萬延元年12月22日~大正14年7月2日) 「三川」の草分けは愛知県三河国(現在の愛知県碧南市)出身の加藤平五郎であった。平五郎は明治28年(1895)郷党の若人19人とともに三川地区へ入植し、当初は農耕も思うようにはいかず大変苦労したが、後には管内でも有数の篤農家として信頼を得ると共に由仁村の開発に大きく貢献した。平五郎は開拓当初から道路の開削、橋の架設、道路排水の掘削を行うと共に道路敷地として土地を寄付している。教育面においては明治31年に三川、37年には東三川に私立教育所を設置し、大正2年の凶作時には窮民児童に弁当や冬季の防寒具を与え修学を奨励した。村の振興のために三川停車場(現在の三川駅)の設置を各機関に請願し、それを明治30年に実現すると共に、自作農奨励のための土地分譲や土功組合の整理を行い、さらに、村会議員をはじめ三川郵便局長や村内外における要職を務め多大な功績を残した。大正14年66才にて死去されるまでの間、由仁村三川の開拓と振興のために身を粉にして働いた人であった。

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