子規庵

古い建物

令和7年(2025)6月27日(金)上野~上根岸~上中里 約7.3km

 東京出張2日目の早朝ラン。どこに走って行こうか悩みながら、ホテルを出る。昨日は北千住方面に行ったし、浅草は以前行ったので、北西の日暮里方面にとりあえず走る。
 根岸の道沿いに、「旧上根岸町」の説明板があった。

【下町まちしるべ 旧 上根岸町】東京都台東区根岸二丁目
 呉竹の根岸の里は、上野山を閉経にした田園風景と清流音無川の流れる静寂の地であった。江戸時代から「根岸の里の侘び住まい」といわれ多くの文人墨客が好んで住んだ。
そのむかし、この付近には大きな池があった。そして上野山のもと(根)にあったことから、すでに室町時代には根岸と呼ばれていた。江戸時代初期、根岸は金杉村に属し、いくつかの民家が建っていた。風光明媚の地であったことから文化文政(1804~1830)の頃には別荘地として二百戸余りになっていた。明治二十二年(1889)、根岸は下谷区に編入されたあとすぐに上根岸町、中根岸町、下根岸町に分けられた。「雀より鶯多き根岸かな」 俳人正岡子規は、明治二十五年から同三十五年まで根岸に住んだ。今、その住まいは「子規庵」として残されている。

 グーグルマップで調べると、近くに正岡子規が住んでいた旧家が残っているので行ってみる。ラブホテル街を抜けると子規庵はあった。

【子規庵】台東区根岸二丁目五番十一号
 正岡子規(1867~1902)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升、本名は常規、別号を獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
 新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鷗外、夏目漱石 も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節 等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
 著書には、俳論『俳諧大要』『俳人蕪村』、歌論『歌よみに与ふる書』、歌集『竹の里歌』、随筆『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』など多い。
 子規はこの場所に明治二十七年(1894)二月から住み、同三十五年(1902)九月十九日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨 が庵を守りつづけた。
 昭和二十年(1945)戦災によって平屋造り家屋は焼失したが、昭和二十五年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。
 史跡に指定されている土地の面積は四〇五・六平方メートル。
平成十二年三月 設置 東京都教育委員会

コメント