令和7年(2025)6月27日(金)上野~上根岸~上中里 約7.3km
子規庵のある鶯谷をあとにし、グーグルマップで付近の史跡を探すと、上中里駅の近くに平塚城跡があるではないか。このため山手線の左側を北西に向かって走って行く。しばらく高台の閑静な住宅街を走り、上中里駅の西側の高台の平塚神社が平塚城跡だった。
なんと平塚神社は、源頼朝や義経、足利将軍家の先祖、源義家が祀られていた。
【平塚城伝承地】東京都北区上中里1-47-1
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代
の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(一四七八)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。平成四年三月 北区教育委員会
【平塚神社由緒】
平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました。






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