令和7年(2025)7月4日(金)
会津若松城に近づいていく。歴史ありそうな市役所と宮泉酒造を通っていく。北出丸の手前に家老内藤邸跡の石碑と会津戊辰戦争終結の地説明板があった。
【旧会津藩家老内藤邸跡】福島県会津若松市追手町5-1
石碑に上記のとおり刻まれその横に「白露亭」という木の説明板があった。「旧会津藩家老で2,200石内藤介右衛門の屋敷跡であり、この庭園の年代、作者等は明らかでないが、江戸時代遠州流の流れを汲んだ由緒ある庭園。
【会津戊辰戦争終結の地】
泣血氈(きゅうけつせん)の誓い 明治元年9月22日午前10時、会津藩は鶴ヶ城の北出丸に「降参」と大きくかけた白旗を掲げた。そして正午に、追手門に通じるここ甲賀町通の路上で降伏式が行われた。地面に家老内藤邸にあった4.5m四方の緋毛氈が敷かれ、その上に会津藩主松平容保・喜徳父子が立ち、西軍の軍監である中村半次郎らに嘆願書を渡した。一か月に及ぶ会津藩の籠城戦は正式に幕を降ろした。式後、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬようにと、敷かれていた緋毛氈を切り取り、その小片を持ち帰った。これは泣血氈と呼ばれるようになった。「明日よりは いづくの誰か ながむらん なれし御城に残す月影」開城前夜 山本八重子嬰(後に同志社大学創始者新島襄の妻)




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