令和7年(2025)7月5日(土) 会津若松駅~鶴ヶ城~松平家墓所~飯森山(白虎隊自刃の地) 約10㎞
鶴ヶ城三の丸跡地、博物館のところに伊東正義先生の碑があった。同氏は自分が子供の頃、よくテレビで見ていたものだ。趣意書があったので、概要を転載する。(会津若松市城東町1)
【趣意】
大正2年12月15日、会津藩士伊東健輔を祖父とし、父秀三郎、母秀の三男として会津若松市日新町に生まれる。旧制会津中学校、旧制浦和高等学校、東京帝国大学に進み、卒業と同時に農林省に入省、農地局長、水産庁長官、事務次官を歴任し、昭和38年に衆議院議員に初当選、以後9回当選。
人柄は誠実で剛直、人々に信頼され、政界にあっては清廉で、名利を求めず、大平正芳の無二の盟友として、大平氏の総理大臣の実現に心血をそそぎ、その内閣に於いて官房長官となって大平首相を支え、その後鈴木内閣で外務大臣として世界を歴訪、各国首脳に日本の立場を明らかに示す、国威の高揚に努めた。
自民党の要職を歴任、常に政治改革を主張、政界浄化を希求、推されて政治改革推進本部長に就任。全国に遊説、日本の政治改革んい一身を挺す。
常に故郷を思い、その発展に尽くされた伊東氏の信条は、会津が永年後進性を余儀なくされたことを憂い、それからの脱却が常に念頭にあった。
「ならぬものはならぬ」という氏の体内の会津士魂は、その後首相を要請されたが、「表紙だけ取り替えても駄目だ」との名言で断った。
その愚直と一徹さは、まさに最後の会津人。偉大なる足跡を後世に示し、政界浄化のため、また故郷福島県民に残された遺徳を教訓とするため、ここに伊東正義先生の銅像を建立する。



コメント