チュクベツ渡船場跡

その他旧街道

令和8年(2026)2月14日(土)浦幌町直別088

 国道38号線を西に走り、浦幌町に入ってすぐ廃屋のドライブインの横に説明版が見えたので、寄ってみると渡船場跡の説明版だった。なんと江戸時代からあったのだ。

【チュクベツ渡船場跡】
 直別川はアイヌ語で(チュク・ペツcuk-pet:秋・川)の意味と言われ、江戸時代に東蝦夷地のトカチ場所とクスリ場所の境であったことから、早くから故文書にその地名が記録されている。寛政11年(1800)には海岸道路が通じ、特に幕末には多くの幕吏や旅行者がこの地を通過したことから、ここから南東約1.4㎞の河口部に「チュクベツ渡船場」を設置し、旅行者の便を図っていた。
 この渡船場の正確な設置年代は不明であるが、文化2~9年(1805~12年)頃に推定されている。松前奉行所調役だった荒井保恵(平兵衛)の『東方漫筆』には、文化6年(1809)に
   トカチクスリ領チクベツ
   此川小川なり夷船にて渡す。冬は歩行渡とみゆ。・・・中略・・・
   右境より壱里余海岸をゆきてシャクベツに至る。
との、船で川を渡った記述がある。このシャクベツ(尺別)へ向かう海岸道路の痕跡を、現在も釧路直別側のキナシベツ湿原海岸沿いに見ることができる。
 また、松浦武四郎は『初航蝦夷日誌』(寛永3年・1850年)において、「チュクベツ、川有、巾十間。丸木舟渡し、夷人小屋有也」と記述。また、安政4年(1857年)の『武四郎回浦日記』では「チョクベツ・・・此処クスリ・トカチ両持にして、隔年に渡し守を出す。一か月給代六百文のよし。川向に夷家二軒有。両川岸には標柱を建てたり」と伝えている。
 明治6年(1873年)の渡船料は人七銭、馬十銭となり、渡し守の一年の給与は十四円五十二銭であった。また、明治25年(1892年)頃には、対岸の釧路直別に高島文吉が私設駅逓所を開業し、旅行者の利便を図っていた。

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