白石区の戦跡

戦跡・古戦場

令和3年(2021)5月29日(土) 16.8km 2時間18分

 最近土日が天候不順で、本日も午前中は雨模様であったが午後に雨が止むようなので、吉方の西方に走りに行く。今日の目的地は、JR白石駅近くの白中公園である。白石の12号線から南側一体、現在の地名でいえば、本郷通1丁目~3丁目から南郷通まで一帯は白石兵器補給廠であった。そして白石駅近く、現在の白中公園には、H型一般兵舎・独身寮があったので、そこまで走ってみる。
 行きは、家からいつもの徒歩の通勤経路から札幌駅を通り、南郷通に入り、白石駅への通りを左折し、12号線を横断しすぐ左折して住宅地を散策すると、白中公園はあった。戦時中の名残はなく、説明板があるだけであった。この公園だけが斜めになっている理由は戦争によるものだった。

【陸軍官舎】:説明板
 昭和19年(1944)10月、現在の白石区役所付近を中心とした約4万㎡に、樺太・千島など北方戦線への兵器などの供給のため、北海道陸軍兵器補給廠(ほきゅうしょう)ができた。
 この兵器補給廠に勤める兵士のためこの土地に、付近の土地割とは45℃北へ回した真南向きに、陸軍中佐をはじめとする将校官舎13戸、下士官などの将兵住宅32戸、計45戸の陸軍官舎が建築され、棟の間にはそれぞれひとつずつの井戸もついていた。
 さらに、白中公園の地にあった2棟を廊下でつないだH型兵舎には、兵士50名ほどが駐在しており、これら住居者の熱望により、畳み3枚ほどの簀子(すのこ)を踏み板とした角形の五右衛門風呂の浴場が、軍隊の手により開設された。
 官舎の区域全体が柵で囲われ、庇には独特の飾り板もつけられ、外壁はドイツ式の下見板、窓ガラスは横長の板ガラスで4段×2列の戸2枚が1部屋の枠組にあった。
 終戦でその多くの家族が移転したが、それは兵士の4分の1が本州方面、4分の1が道内各地から来た人々であったためであろう。

 白中公園をあとにし、まだ走る距離が少ないため、国道12号線の数本北側の未知を通って札幌駅に向かう。 かつて旧JR千歳線であった土盛りがあった。今度この道を走り、定山渓鉄道まで走ってみよう。
 旧千歳線が走っていた跨線橋があり、この跨線橋を渡り切ったところで右手の小道に入ると、そこに児童用の遊具が並ぶ白石公園が広がっていて、その角に「白石歴しるべ」の説明板が建てられていた。

【白石村1番】
  「白石開拓の第一歩は、旧暦明治4年11月(新暦の12月)、旧仙台藩白石城主片倉小十郎の元家来とその家族が、家老佐藤孝郷に率いられて、この地に開拓のクワを振るったのに始まる。
 原始林を切り開き、幅18㍍、長さ3,600㍍の道路(現在の国道12号)を造り、この道路を挟んで、道路の右と左にそれぞれ1番から50番までの番号をつけて土地割りをした。厳しい寒さの中、翌5年2月までに100戸の小屋がけを完了し、この年に左右の番号をひとまとめにして1番から100番に変えた。
 土地割りの起点となった1番はこの標示板よりやや東側にあたり、100番は白石神社の西隣にある。」

 天気は悪かったが、満足の史跡訪問ランであった。

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