令和5年(2023)9月9日(土) 帯広市(競馬場~緑ヶ丘公園往復)8.8km 1時間31分
帯広市に用事を済ましに来たついでに、市内ランニング。走り始めてすぐ、帯広市競馬場で石碑を発見。
【奥野小四郎翁顕彰碑】・・・写真は少しボケて転載できなかったので、ウイキペディアから転載。兵庫県三原郡広田村(のち緑村、緑町を経て、現・南あわじ市)で武田泰三の三男として生まれる。1898年、郁文館中学校を卒業し、同年、第三高等学校第一部に入学したが、家事の都合により一年で退学した。その後、洲本町の先代奥野小四郎の婿養子となり家業に従事。1904年5月に来道して先代が拓いた上川郡士別村の農場の経営を担当。1906年から2年間、北海道庁真駒内種畜場で畜産獣医の講習を受け、1908年、十勝国中川郡居辺原野で先代と共に牧場を経営し、産馬の改良繁殖に尽力した。1915年12月、先代が死去し、1916年1月、11代小四郎を襲名。帯広町会議員、北海道会議員、十勝郡農会長、北海道農会副会長、十勝畜産組合長、北海道畜産組合連合会副会長、中央畜産会理事、北日本無尽 (株) 社長などを務めた。その後、士別軌道の第2代社長として、初代社長の大久保虎吉の後任として就任。1924年5月、第15回総選挙に北海道第9区から出馬し当選。1942年4月の第21回総選挙で北海道第5区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選し、衆議院議員を通算二期務めた。1946年1月、帯広市長に就任するも、第21回総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けていたことから公職追放となり、1947年1月に市長を退任した。その後は政界を引退し、晩年は故郷の洲本市に帰郷し、同地で没した。
その隣には、馬の銅像があった。
その後、緑ヶ丘公園内を散策。十勝監獄跡の石碑があり、レンガ造りの十勝監獄石油庫を見学。
【十勝監獄の沿革】・・・明治25年十勝分監建設のため、現帯広柏葉高校付近に北海道集治監釧路分監帯広外役所を開設。明治38年現根室本線以南一帯に当たり開墾を主な?として北海道集治監十勝分監開庁。十勝内陸開発の拠点となる。大正11年十勝刑務所と改称。同年広大な旧監獄用地を民間並びに町に払い下げ。昭和18年帯広刑務所に。
【十勝監獄石油庫】・・・十勝監獄石油庫は、明治28年設置の北海道集治監十勝分監の名残を現在にとどめる数少ない文化的遺産の一つです。この石油庫は、監獄内で使われる灯油用油の保管庫として、明治33年に建てられたもので、帯広市で現存する最古の建造物であり史跡としても極めて価値の高いものといえます。石油庫に使用されている煉瓦と屋根瓦は、囚人が獄内の煉瓦工場で焼いたもので、煉瓦には十字の葉型の刻印があり、配列は格段に長手に小口を交互に並べる、当時としてはめずらしい「フランス積み工法」がとられています。
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