登別町登別地区(登別駅~滝本金蔵人馬継立業跡~知里幸恵銀のしずく記念館~知里真志保の碑~金成マツの碑・知里幸恵の墓~アフンルパル)
2月20日(土)6.7km 1時間2分
幌別地区だけでは走る距離が足りないので、登別駅に車を停めて、知里さん関連の史跡を訪問することに。登別駅に「幸恵のふるさと紀行」という地図があり参考になる。走って1㎞ほどで、人馬継立業跡の説明板に到着。
【滝本金蔵人馬継立業跡】
: 明治5年、札幌本道が開通されると、通行人を対象に旅籠屋を経営し、人馬継立業をする者が増加した。この地は自ら私財を投じ、登別温泉への道路を整備、湯宿を開くなど、登別温泉の開発に尽力した滝本金蔵が宿泊所を設け、人馬継立所として逓送を行った場所である。
次に知里幸恵銀のしずく記念館を訪問すると、何と冬季間休業残念。また、夏にくることとしよう。
【知里幸恵・真志保をはぐくんだ地】
知里幸恵は1903(明治36)年、父・高吉、母・ナミの長女としてこの地に生まれ、7歳の時伯母・金成マツのもとに移り住みました。15歳のとき、言語学者金田一京助と出会い、のちに上京して、アイヌ民族に伝わるカムイ・ユカラ(神謡)をまとめた「アイヌ神謡集」を著しましたが、持病の心臓病のため19歳の若さでその短い生涯を閉じました。
また、幸恵の弟・真志保は、1909(明治42)年、知里家の次男として生れ、登別小学校、室蘭中学校(現在の室蘭栄高校)を経て東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業。アイヌ民族の言語の神話、伝説などを研究し、アイヌ研究の基礎を確立した偉大な言語学者として、その業績は高く評価されています。
記念館から登別小学校に向い、グランドに到着すると、知里真志保の碑があった。「銀のしずく 降れ降れ まわりに」と書いてある。紀行ルートでは、ここから墓地の方に向かうのだが、こんな季節に墓参りもなんだかなと思っていたが、案内ルート表示があるので、これも何かの縁と考え、向かうことに。しかし、墓地は丘の上にあり、結構な上り坂である。喘ぎながら墓地に到着。雪を踏みしめながら、2人の碑・墓に到着。しばらく拝んでから墓地をあとにする。
【金成マツの碑】明治8年11月10日生~昭和36年4月6日没
幌別郡幌別村(現登別市)生れ。アイヌ名はイメカヌ。知里幸恵、知里真志保の伯母になります。16歳のとき、ジョン・バチラーにより設立された函館の〇〇学校に入学し、その後平取や旭川の近文でキリスト教の伝道に当たりました。
52歳の時、亡くなった幸恵の意志を継ぎ、母モナシナノウクから伝承したユカラ(アイヌの口承叙事詩)の筆録を故郷の登別ではじめました。その一部は「アイヌ叙事詩ユーカラ集」として刊行されています。80歳のとき紫綬褒章を受賞、翌年に登別町功労賞を受賞し、85歳で亡くなりました。
【知里幸恵の墓】明治36年6月8日生れ~大正11年9月18日没
幌別郡登別村(現登別市)生れ。7歳の時に旭川に移り、祖母のモノシナノウクと伯母の金成マツのとともに暮らしました。
15歳の時、言語学者金田一京助と出会い、ユカラを和訳して記述するという画期的な仕事を手がけることになりました。19歳の時上京し、金田一宅で翻訳作業を続けました。「アイヌ神話集」の校正を終えたその日の夜、心臓病により19歳で急逝し、翌年8月に「アイヌ神謡集」が刊行されました。
当初は東京都雑司ヶ谷の金田一家の墓所に埋葬されていましたが、昭和50年に祖先が眠る故郷のこの地に改葬されました。
墓地をあとにして戻ろうとすると、「アフンルパル」はこちらへみたいな矢印がある。何かと思い、草原を200mほど進むと、国道沿いの法面のところに大きな穴があった。ここがアフンルパル=あの世の入口だそうである。
【アフンルパル】
アフンルパルは、アイヌ語で「入る・道・口」の意味で、あの世の入口を指しています。一般的には登別漁港にあるような横穴ですが、ここは珍しい竪穴です。
登別市出身のアイヌ語学者知里真志保、友人のアイヌ語地名研究者の山田秀三らが、昭和30年に真志保の父高吉の案内で調査しました。
穴は楕円形で、大きさは約30m×22m、深さは約4mもあります。道路工事で一部破壊されていますが、現在でもその大きさを体感できます。
登別市出身のイヌカメ(金成マツ)が、アフンルパルのウエぺケレ(昔話)を伝承しています。主人公の少年が悪い叔父にだまされ、あの世に行きますが、死んだ家族に言われ、代わりに叔父をあの世に送り出し、美しい女と結婚し、村とともに栄えていったというものです。
ここは、アイヌ民族の世界観を繁栄した地名と物語が残る、不思議な場所です。
アフンルパルをあとにし、登別駅に戻る。
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