札幌市(札幌駅前から以下を通って家まで)
・札幌駅前
・クラーク博士居住地跡(南2条東1丁目)
・豊平橋小史
・平岸街道入口(国道36号線豊平6条)
・アンパン道路入口(国道36号線月寒中央駅)
・豊平町役場跡
・アンパン道路出口(南平岸駅)
令和2年(2020)11月8日(日)16.2km 2時間21分
札幌駅まで午前中用事の後、国道36号線を通ってアンパン道路から家に帰ることにした。二条市場から少し南に、クラーク博士宿泊地跡があった。また、ここは開拓使本陣でもあった。北海道に本陣があったとは驚きだ。
【クラーク博士居住地跡(開拓使本陣跡)】
明治9年7月31日、W・S・クラーク博士(1826~1886)が札幌農学校初代教頭として米国から札幌の地に赴任した。宿舎はここ南2条東1丁目にあった開拓使本陣と呼ばれる建物である。
宿舎の役目を持つ本陣は明治5年に竣工し、建物面積800余㎡の木造平屋建ての当時としては最大の建物であった。8年からは主にお雇い外国人用として使われ土木工学技師ボイラーなども居住していたが、12年に焼失した。
クラーク博士は終始この本陣に居住し、ここから農学校の開校式に臨みまた建設まもない札幌の施設等を視察している。
明治10年4月16日、クラーク博士は本陣前で馬上の人となり札幌に別れを告げ帰国した。
国道36号線を東に向かう。昔走った時に比べて、歴史の説明板が多く設置されている。豊平橋小史や豊平駅の今昔の説明板が設置されている。
【豊平橋小史】
現在、札幌市は190万人が暮らす全国有数の大都市となったが、今日の隆盛には、豊平橋が重要な役割を果たした。豊平橋は札幌の母なる川、豊平川に架けられた初めての本格的な橋であり、初代の豊平橋は、苫小牧、千歳方面から開府が始まった札幌へ、そして小樽方面への道を結ぶ札幌越新道の札幌への東口であった。
明治4年 最初の木橋完成。約1か月半で洪水により流失。
明治8年 当時の最新技術によるハウトラス洋式木橋完成(N・W・ホルト設計)、明治十年洪水により破損
明治11年 前年の洪水流失を再建(P・W・ホイラー設計)
明治31年 プラット式一部鉄橋完成(道庁の岡崎文吉設計)
明治42年 市史上最大の洪水で、東橋のほか創成川の全橋も流失。豊平橋も一部橋脚が破壊、同年6月の大洪水で全壊。以後、仮橋時代が続く。
大正13年 タイドアーチ型鉄橋が完成(道庁の山口敬助設計)。市電も走るその美しさで多くの人々に愛され長く道央圏の交通の要衝を担った。
昭和41年10月1日 現在の橋が完成。
安政4年、志村鉄一が石狩役所調役の荒井金助より豊平川の渡し守・通行屋守に任命されてから、150年の年に豊平橋の小史を記した。
【豊平川今昔】
安政4年に室蘭新道が開削され札幌開拓に伴い豊平地区の居住者が増え、大正七年には定山渓鉄道が開通し現在の豊平6条に豊平駅が開業したことで、木材等の集積地及びターミナルとしての豊平地区繁栄の礎が築かれた。
昭和4年に駅舎を豊平4条9丁目に移転するとともに、電化され高速化と大量輸送が実現した。同時に市電豊平線が豊平駅前にまで延長され札幌中心部との人々の往来が増え豊平地区が益々賑わうこととなった。
一方、自動車が増加し市電乗客の安全のため電停と歩道を結ぶ横断歩道協が設置されたが、乗客の減少により昭和44年に定山渓鉄道が、昭和46年には市電が廃止された。
室蘭街道は戦後舗装され弾丸道路とも呼ばれ現在1日に6万台が往来する道内有数の交通量を誇る国道となっている。
本年豊平地区町内会連合会は創立50周年を機に豊平駅が地域に果たした功績を後世に残すためこの記念碑を建立する。
平成30年10月 豊平地区町内会連合会
【年表】
安政4年 幕府の命より札幌越新道の星置から島松までの道路開削を安部屋伝次郎が請け負う。
明治2年 札幌の開拓がはじまり豊平橋より室蘭街道沿いに居住者が増えていった。
大正7年 定山渓鉄道開通。札幌市内に路面電車開通。
大正13年 タイドアーチ型豊平橋が完成し、豊平地区に路面電車延長される。
昭和2年 札幌市が路面電車事業を買収。
昭和4年 定山渓鉄道電化、豊平駅を4条9丁目に移転。市電を豊平駅前まで延長。
昭和24年 定山渓が支笏洞爺国立公園に指定される。
昭和25年 市電豊平駅前停留場を駅前広場引き込み線に設置される。
昭和41年 国道車両の増加により再び停留場を国道に移設する。北海道初の横断歩道橋を8丁目国道に設置する。
昭和44年 定山渓鉄道が電車事業を廃止。
昭和46年 市電豊平線廃止。
平成27年 8丁目横断歩道協撤去。
月寒中央駅近くからアンパン道路に入ると、児童館のところは豊平町役場跡だった。
【豊平町役場跡】
最初の豊平町役場は現在の豊平4条6丁目に置かれていた。明治43年豊平地区が札幌区に編入されたのに伴い、この地に新築移転されました。昭和31年月寒中央通7丁目に移転するまで町政の中心であった。
アンパン道路をしばらく走るとレトロな洒落た木造建築が現れた。ここも史跡であった。
【旧たくんち】
建築家倉本龍彦氏の設計による第一作。昭和47年、自宅として建築され、子息の名にちなんで「たくんち」と呼ばれていた。昭和58年に増改築され、今日の姿になった。木製の下見板を使った独特な建物である。
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