海老名市(海老名駅~瓢塚古墳~国分寺跡~国分尼寺跡~国道246号線~さがみ野駅)
令和2年(2020)9月18日(木)8.7km 1時間24分
出張で夕方時間ができたので、次男の家の近くの海老名を散策ランニング。昔横浜に住んでいた時に、国分寺跡に来たことがあるが、それ以来の再訪だ。しかし、海老名駅前は都会になっている。
【瓢箪塚古墳】
相模川とその両岸の平和を見下ろす、ここ座間丘陵上には、7基の古墳が確認され、上浜田古墳群を形成しています。上浜田古墳群には、円墳、方墳、前方後円墳からなる4~5世紀代にかけての古墳群であり、瓢箪塚古墳は同古墳群で現存する唯一の前方後円墳で、市内最大の古墳です。
瓢箪塚古墳は、地元では「ひょうたん山」と呼ばれ、古くから親しまれてきました。また、明治43年には郷土史家中山毎吉によりその著作「神社名勝古蹟誌」のなかで、瓢箪塚古墳の計測結果が記されるなど、古墳としても古くから認識され、大正8年には当時の海老名市村が墳丘部分を保存のために購入し、村有地としました。
【国分寺跡】
奈良時代、聖武天皇は仏教の力で国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で周囲を囲んでいます。その外側は素掘りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と諸国の国分寺の中でも有数の規模を誇ります。
七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。瓦は乗越瓦窯(横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(東京都町田市)などで焼かれたものが使用されています。また、当跡や金堂跡などの礎石は中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡の逆川跡は、これらの資材を運ぶために人工的に開削された運河とみられています。
通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(平塚市)、国分寺は国府は約12キロも離れた高座郡(海老名市)に置かれました。これは大住郡と高座郡の郡司が壬生氏という同じ氏族であったからではないかとされています。ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、二寺が並び立つ様子は壮観だったことでしょう。
相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれています。
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