紅櫻公園

旅ラン

令和5年10月27日(金)

今日はお休み。西岡の病院にかかったあと、西岡水源地に車を停めて紅櫻公園まで走ることに。以前訪問した時と違って、蒸留所ができていた。ジンを製造しているようだ。そして紅葉シーズンなのか、入場料を500円取られた。

公園の中は石碑で溢れている。

【神力演大光 之至 広済衆厄難 万手 謹写】・・意味はネットでもわからない。

【紅桜園作詞記念】・・・概略は次のとおり。作者 泉澄流氏 本名清村 大正四年六月夕張郡由仁町に生まれる 昭和八年関西大学入学・・・(以下略)平成四年六月 紅桜公園園主 奥矢将雄

【紅櫻園】・・・以下のとおり刻まれていた。「紅櫻園 泉澄流 春去秋来自在天群葩馥郁引岩泉卒酸幾代紅櫻苑顕彰遺風長為伝」

少し山の方には開拓神社の碑があった。社殿はないが、石碑に溢れている。開拓神社は昭和39年当地以下委託70周年記載祭として迎え、開拓功労者14柱を御祭神としているそうだ。おそらく社殿があったところには二つの碑があり、その横に説明板があった。

【山之神】・・・碑文 この碑は初代阿部与之助が1898年(明治29年)道庁より澄川389番地の山林240ヘクタールを取得し造林を始めた。またおお山林の麓の清流精進川沿で軟石も採掘され この山林と石切場で働く人たちの安全を祈願のため石切場の一隅に1921年(大正十年)山の神の碑が建立された 尚この棹石は石工の一命を救った幸運の石と伝えられている 1987年(昭和62年)敬神家奥矢政雄氏の尽力に依り現在地に移設した 1988年6月 四代目 阿部則広

【御大禮記念】碑・・・(写真がぼけているため一部転載)この記念碑は明治27年8月に多くの開拓移住者により蝦夷地の未開の新天地に一家の存亡をかけて北陸地方から現在の札幌市豊平区西岡の通称油沢を永住の地と定め汗と涙で生き抜いた 当時の札幌の人口は約2万8千人。大正4年11月、自分たちの開拓記念碑を自らの手で建立・・・(以下略)昭和57年6月吉日 油沢開拓記念碑保存会有志一同

 あと俳人の碑もあったが、ここでは省略。園内は紅葉が綺麗だった。

コメント