令和元年(2019)10月19日(土)
群馬県ドライブ【妙義神社、富岡製糸場、群馬総社古墳群(宝塔山古墳、蛇穴山古墳)、大室古墳群(内堀4号墳、中二子古墳、前二子古墳)】
長野県上田別所温泉に泊まった後、上田駅前に移動しレンタカーを借りて、群馬県へ。上越道の佐久ICと碓井軽井沢IC間が通行止めなので、下道を走る。カーナビで妙義神社を目的地にすると、国道18号線を通らず浅間山方面の県道を走り、国道18号線に合流し、碓氷峠を越えて降りると、妙義山神社に到着した。
【妙義山神社】
この神社の後ろに聳える妙義山は、新幹線や高速道路からギザギザの山である。その山のふもとに妙義山神社が鎮座していた。急な階段を登ると社殿が聳えていた。創建は宣下天皇の2年(537)年に鎮祭し、当初は波己曽(はこそ)の大神と称し、のちに妙義と改められたというから古い。場所としては後醍醐天皇に仕えた権代納言長親卿が住んでいたほか、江戸時代には歴代将軍や加賀の前田候等多くの外様大名がお参りしていたという。神社からは関東平野が望める。社殿もお江戸時代初期から中期の建造物で壮麗なものである。
【富岡製糸場】
妙義山神社から昼飯を食べようとして富岡市の中心部に向かうと鰻屋があり、入ってみると、出来上がるまで40~50分かかるので、富岡製糸場を見学してくださいという。よくわからなかったが、その店は富岡製糸場の裏であった。当初ここには訪問しない予定だった。富岡製糸場は明治政府が明治3年に外貨獲得のための貴重な輸出品だった生糸を生産するために建設された。工場建設にあたりフランスの技術者を導入するとともに、技術伝播のため全国から工女を募集。明治26年に民営化され、その後三井家、原合名会社、そして片倉工業に引き継がれ昭和62年まで操業されていたそうだ。外見は赤レンガ造りであり100年以上経っているにかかわらず、まだしっかり建っていたのが印象的であった。
【前橋総社古墳群(宝塔山古墳、蛇穴山古墳)】
次に前橋市の総社古墳群である。前橋市の中心街を過ぎてカーナビ通りに進むが、うまくいかない。結局カーナビに頼らず行くと着いた。総社公民館と前橋フィールドミュージアムがあり、広い駐車場があった。駐車場の前に「宝塔山古墳」があった。ネットによると一辺54mの方墳である。頂上に登るとそこは総社領主秋元氏の墓地であった。戦国期から江戸時代に活躍した初代長朝氏らの墓があるという。
駐車場の向いに「蛇穴(じゃけつ)山古墳」があった。ここも簡単に登れたが、その裏には石室が残っていた。その名前の由来は、江戸時代において、石室内に祀られた宇賀神の「ウ」を表す梵字が蛇に似ていたことによるという。
【大室古墳群(内堀4号墳、中二子古墳、前二子古墳)】
次に向かったのが大室公園にある大室古墳群だ。前橋総社から20kmほどなのだが、道も狭く信号も多く30分以上かかった。その公園は田園地帯の中にあり、内地らしくなく広い公園だった。
到着すると夕闇も迫ってきて、ここから東京に帰ることを考えると急いで登る必要があり、走って回ることにする。今日は時間がなかったので、内堀4号墳、中二子古墳、前二子古墳のみ訪問。以下、ネットから転載。
大室古墳群は、全体では10以上の大小の古墳が点在。葺石を使い埴輪が並ぶ大型の前方後円墳の存在は、6世紀初頭(前二子古墳築造)には大和朝廷の力が赤城南麓にも及んでいることの証になっています。
一帯は前二子古墳、中二子古墳、後二子古墳、小二子古墳という4つの古墳を中心に、五料沼横に水時計のオブジェの配された「時の広場」、石切場を再生した「岩室ゾーン」、水遊びの楽しめる「親水ゾーン」、赤城型民家(養蚕農家)「旧関根家住宅」を中心とした「民家園」、ピクニックに最適の「みんなのはらっぱ」などが整備され、大室公園として公開されています。中心に位置する五料沼は、江戸時代に築かれた農業用の溜め池。前二子古墳、後二子古墳は、石室も公開されています。前二子古墳、後二子古墳は明治11年に日本で最初に西洋の科学的な方法を用いて調査された古墳。
イギリス政府から派遣された外交官、アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)も明治13年に大室を訪れ、前二子古墳の出土品のスケッチや測定を行なっています。
また、前二子古墳は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと=崇神天皇第1皇子)の陵墓に認定されています。
『日本書紀』などによれば、豊城入彦命は、東国の治定し、上野毛、下野毛の始祖とされています。また、大室公園内の南東端には豪族が住んだと推定される堀と柵で固まれた大きな館跡(梅木遺跡)も発掘されています。東に隣接する多田山丘陵には赤堀茶臼山古墳があるほか、近くの産泰神社は5世紀創建と伝えられる古社で信仰の対象となった巨石群もあるので寄り道を。
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