北根室ランチウエイ2

旅ラン

2日目 令和元年9月22日(日) 第4ステージ・第3ステージ 8名
  ・ 西別小屋~養老牛温泉~牧舎
  ・ 9時35分発 25.1km 5時間39分

中標津町養老牛温泉の説明板を転載していなかったため、転載する。

【養老牛温泉の歴史】
 養老牛温泉はアイヌの人たちにはもちろんですが、江戸時代の終わりに松浦武四郎の踏査などにより一部の和人にも知られていました。
 明治7年(1874)年にはアメリカ人地質学者のライマンがこの地を訪れています。その時には茅屋があり、イナウがあったと記録されています。その20年後の明治27(1894)年には国の機関が調査し、アイヌだけではなく和人も少数ながら訪れていたことがわかります。
 大正5(1916)年、ここから15キロメートルほど南西にある虹別のアイヌのエカシ(長老)はしばみ(木へんに秦)孝太郎にあった西村武重は、アイヌたちが季節ごとにクマを狩り、ヤマベを釣り、湯治をし、木の皮の繊維採取に使っている温泉のことを知りました。そこには現在のカラマツの湯がある場所で、アイヌの人たちは300年も前から使っていたとのことでした。
 西村は夜を徹して歩き温泉にたどり着きました。見渡すと、小高い所には細木を何十本も並べた祭壇があり、地上1メートルほどの檀上には、熊の頭骨が50~60個も並び、若木を上手に削った新旧の木幣(イナウ)が何十本も立てかけてありました。これはクマ送りの祭壇であり、初めて見た西村は、「実に荘厳で神秘的なものだった。」と記録しています。翌日、現在の温泉を訪れました。そこにもクマ送りの祭壇があり、はたエカシの話では300頭以上のクマが祀られているとのことでした。
 西村は北海道庁に温泉の許可申請をし、温泉から俣落までの馬車道を新設し、大正9年に養老園を開設しました。
 昭和に入って小山旅館(現在のホテル養老牛)、大一旅館(現在の湯宿だいいち)、坂本旅館が相次いで開業し、戦争の影響による変遷を経て、「藤屋旅館」が開業した昭和40年代には6軒の宿があり、中でも「花山荘」は、当時の養老牛温泉の名を知らしめる有名な旅館でした。このころは温泉祭りが開かれたたくさんの客で賑わいのある華やかな時代でした。
 養老牛の語源はアイヌ語です。「エ・ウォル・シ」→「山が岩崖になって水の中にささり込むところ」(更科源蔵)が解釈としては有名でしたが、現在は「イ・オロ・ウシ」→「それを・水に漬ける・ところ」(山田修三)が有名のようです。
 「ヨローウシ」というカタカナ地名に、はじめ「養老址」とあて字をし、その後「養老牛」とあらため、これが地図に採用され、現在の地名になっています。

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