札幌市(発寒村開村記念乃碑、永田休蔵(久蔵)乃碑)
令和元年(2019)年5月3日(金) 14.8km 1時間52分
宮の森~発寒中央~北大~宮の森
札幌での史跡巡り、発寒中央駅の近くの二つの碑を訪問したことがなかったので、家から走ってみることに。発寒中央駅向かいのはっさむ地区センターの敷地にその碑はあった。永田さんの碑に関するコメントは「札幌歴史散歩」(編著 片岡秀郎)から引用する。
【発寒村開村記念乃碑】
安政4年に、山岡主計頭さんが永田久蔵さんらと農家17~18戸をさそい、この土地に住み荒れた土地をきり開いた。その時に、この土地を発寒部落とよぶようになり、その後多くの人たちがこの土地に住み着くようになった。そこで安政4年を発寒の始まりと決め永く伝える為に、みんあがお金を出し合ってこの記念碑をたてた。
【転載終了】
【永田休蔵乃碑】
この碑は、発寒に入植し、志半ばで逝った永田休蔵を悼み、大正14年に建てられたもので、当初、発寒小学校前に置かれていた。
安政4年(1857年)、発寒に与力山岡精次郎以下10人ほどの武士が在住として入植し、蝦夷地の開拓と警備にあたったが、永田はその一人であった。
永田は開拓に熱意を持ち、農民11人を連れて都道。永田は、連れて来た11人の農民について資金借り入れを申しこんだが聞き入れられず、そのうち3人を函館地方の中嶋辰三郎に頼んで残したと村垣函館奉行の日記に記されている。
入植した年の11月晦日、同僚の大竹鎮十郎とともに石狩役所から発寒に帰る途中、石狩海岸で急に西北の風が強くなってシケとなり、波に呑まれて遭難した。働き盛りの45歳であったという。このことが箱館に知らされたのは12月26日。村垣奉行は、この悲報を驚きをもって日記に記している。
永田の不慮の死後、明治初年まで永田宅にいた青木力蔵は永田が連れてきた農民の一人であったという。
【転載終了】
次に、北大方面に向かい、札幌聾学校の近くのパークゴルフ場のところに、K435遺跡があった。以前走った時にはなかったようであり、史跡を発見できてうれしかった。
【転載はじめ】
K435遺跡は、北区北24条~27条西12~14丁目にあります。平成2年と3年に、マンション(ラポールえるむの杜)建設、北海道札幌聾学校建設、エルムの森公園造成をするまえに発掘調査をしました。この遺跡は、擦文時代の遺跡で、竪穴住居24軒やたき火の跡47か所といっしょに、たくさんの土器などが発見されました。また住居のかまどや屋外のたき火跡からは、アワ、ヒエ、キビなどの穀物類やサケの骨などがたくさん見つかりました。発掘された土器などは、札幌市埋蔵文化財センター展示室で展示しています。
【転載終了】
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