令和5年(2023)12月3日(日)音更町木野周辺(ダイイチやコメリ等がある駐車場~鈴蘭公園往復) 約8km
午前中の水泳大会が11時過ぎに終了し時間もあり、今日は比較的暖かいので、音更町の訪問していない史跡を走って訪問することに。木野のダイイチオーケー店の前に車を停めて、道道を南に走っていく。しかし、この辺はすごい栄えていて、車通りも多い。十勝大橋手前で右折し、鈴蘭公園に走って登っていく。
【鈴蘭公園】・・・鈴蘭公園はの説明チラシがあり、概要を述べると、「農業の好況で帯広市街が発展する中、音更高台に大正15年に開設。帯広町と音更村が組合を作って共同開園。戦時中は荒廃、昭和30年代に帯広市の公園として復興整備、平成元年に音更町に移管。」
鈴蘭公園は樹木が生い茂り、入ってすぐに仏舎利塔らしきモニュメントらしきものがあった。これは平和の塔と言われるものらしい。
【十勝平和塔】・・・説明板の概要。「建立の趣旨 この平和塔には印度ネール首相より日本山妙法寺山主藤井日達聖人の手を経て贈られた釈迦牟尼仏の遺骨が奉安。世界の平和運動の先駆者である釈迦仏の意志を継承して次の希ひをこめて建立。昭和三十九年八月三十一日 十勝平和塔建設期成会」
公園の一番南側が開けていて、帯広の市街や日高山脈がよく見える。
【松浦武四郎歌碑】・・・台座の上の石板には「開町紀念碑」と刻まれ、その下に武四郎の歌「此のあたり 馬の車のみ津きもの 御蔵建てて つまま欲しけれ」と刻まれている。その隣の説明板には「松浦武四郎は、安政五年、函館奉行所の命を受け石狩調役下役、飯田豊之助とアイヌ案内人ら十名で石狩を出発し、富良野から帯広・音更・大津に入り一カ月間十勝を探検し、踏査内容を「十勝日誌」「東蝦夷日誌」に著しました。この歌は、宿泊した音更川河口付近の惣乙名シラリサの家で、当地の将来の発展を予見して詠んだものです。詠んだところは「モケナシ」の高台(富丘)です。明治二年、松浦武四郎は蝦夷地を北海道と命名しました。大正8年、帯広、十勝開拓の由来を刻み、鈴蘭公園内にこの碑を帯広開町記念碑として建立されました。
その次に公園八幡宮にお参りする。ここは明治33年の創祀だそうだ。社殿の隣に石碑があり、「蓮佛常蔵翁頌徳碑」があった。この翁は音更の開拓の祖らしい。ネット上にも情報がないので、裏面から一部概要を転載する
【蓮佛常蔵翁頌徳碑】・・・表面には左記のとおり刻まれ、「北海道知事田中敏文書」と刻まれている。裏面の概要は次のとおり。翁は明治三年鳥取県の名家蓮佛家に生まれる。明治二十三年、青雲の志をもち、この地を開拓。明治44年産業組合を創設。組合長として農業経営を改善。交通、教育各般の努力。昭和19年10月11日、公正忠実なる公僕の生涯を終わる。享年75歳。
思いもかけず、史跡巡りをできてラッキー。
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