平成30年(2018)6月30日(土) 道の駅しゃり~国道334号線~朱円環状土籬~(海岸側の町道)~以久科原生花園~津軽藩氏殉難碑等
20.9km 2時間58分
今週の土日は、オホーツク方面を走ることにする。根室から標津町経由で、国道244号線を北上し、根北峠を越えて斜里町に向かう。今日の走るコースは、道の駅しゃりに車を停めて、朱円ストーンサークル等を訪問することである。
天候は晴れで結構暑いくらいである。日差しが強いので、コンビニで日焼け止めを買って顔と首、腕に塗って走る。
国道334号線をウトロ方面にひたすら走る。小麦畑と馬鈴薯畑の向こうに、斜里岳と海別岳が綺麗に見える。また、はるか彼方に羅臼岳と硫黄山などの知床連峰もきれいに見える。
しばらく走り、右側に朱円ストーンサークルの看板が見えてきた。説明板を転載する
【北海道指定史跡 朱円環状土籬(どり)】
指定 昭和32年1月29日 管理者 斜里町
環状土籬とは周囲に土塁をめぐらせた個人の墳墓でヨーロッパやシベリア大陸に分布する大きな立石をめぐらせた環状石籬(ストンサークル(ママ))によく似ており、全国でも類例が少なく学術的価値の非常に高い遺跡です。
斜里町朱円の環状土籬は直径約30mのものと同じく28mの円形のものが隣り合わせて存在し、その土籬の中にいくつかの積石墳墓があります。積石墳墓は昭和23年24年の故河野広道博士によって調査が行われ、「ベニガラ」を敷き詰めた墓穴の底から、土器、土版、土製耳飾り、石棒、石斧、玉類、漆器、残片、炭化した織物などの貴重な遺物が人骨とともに発見されています。
土器には鉢型、徳利型、盃型など変化に富んだものが多く、栗沢式土器と命名されておりますが、これらは東北地方のストンサークル所在から出土する土器と非常によく似ており、遠い東北地方の文化の流れを組むものであることがわかります。
なお、この環状土籬は今から2,000年から3,000年ほど前の人々によって築かれた縄文文化期の遺跡です。
ここはこれまで見てきた小樽等のストーンサークルとも微妙に違う。数千年度ほど前まで続いていたこうした遺跡(古墳含めて)が、現代につながっていないのは何故なのだろうと考え走る。
ストーンサークルから朱円集落に入ると「赤上神社」があった。神社横には開拓碑があり、この地は明治10年に岩手県から入植したとある。
【朱円開拓百二十周年記念碑】・・・碑文の概要。明治十年岩手県人鈴木養太らこの地に開拓の初鍬。一致協力して開拓の苦闘、道路、水稲、でんぷん工場、学校、神社、説教所などを開設。理想郷土の建設に邁進して今日に至る。ここn悠久百二十周年の輝き氏歴史を迎えるに当たり、先人の味わった辛酸の労苦に感謝、遺徳を讃え、その尊き志を継ぎこの碑を建立。平成九年七月一日。
【岐阜県一致同志会発祥の地】・・・石碑の正面には左記のとおり刻まれ、その左に小さく「岐阜県大和町町山下運平」と刻まれている。その下の基台の碑文には概要が次のとおり刻まれている。「明治後期から大正初期に岐阜県郡上 武儀の両郡より入植。波多野耕三 出崎善八 林勘十郎らを中心に大正4年岐阜県一致同志会を組織。我等その精神を受け継ぎここに七十周年を迎え、初代の労苦に感謝、遺徳を称え故郷長良川上流大和村寄贈の意志にその尊き足跡を刻む。昭和59年6月10日。
次に地図上に海岸側に示されている「朱円千穴遺跡」に向かったが、どうにも見つからない。畑で作業しているお母さんにも聞いたが聞いたことがないという。海岸は林が鬱蒼としており、熊も怖いのであきらめて引き返す。帰る途中に以久原生花園により、知床博物館に行くと、先ほどの環状土籬に埋葬されていた石棒などが展示されていた。
次に、斜里町役場の裏手、知床博物館の西側のこんもりと茂った町民公園にいくと、津軽藩士殉難慰霊碑があった。この町で昔懐かしい弘前の行燈まつりのポスターが目についたが、この斜里の地は津軽藩によって開拓されたのだ。しばらく歴史に浸り道の駅に変える。津軽藩の殉難はネットより転載。
【津軽藩氏慰霊碑等】
1807年(文化4)年、江戸幕府は津軽藩、秋田藩などの東北諸藩に蝦夷地警備を命じています。寒さに強いという理由で東北諸藩がロシアの南進策に対抗する蝦夷地警備を命じられたのですが、斜里でも多くの殉難者を出しています。
1789(寛政元)年、物資を積んだ船を通じて、シャリのアイヌから松前藩に対して交易船の派遣願いが出されました。シャリ場所開設の要請で、1790(寛政2)年、ソウヤ場所から分かれるかたちでシャリ場所が開設されました。シャリ場所の運営は、樺太、千島などでのロシア船による商船襲撃などがあり(文化露寇)、北辺の警備が危急の課題となりました。1807年(文化4)年?1809年(文化6)年、幕府は、会津藩に対して樺太出兵を命令。帝政ロシアの南下政策に対して、1807年(文化4)年、シャリ場所は松前藩領から天領(幕府直轄地)となり、津軽藩が斜里前浜(砂丘部分/津軽藩士シャリ陣屋跡=斜里町本町52-24)に陣屋3棟を構えました。>厳しい冬場に浮腫病の蔓延により藩士は72名が死亡し、故郷の津軽に戻った者はわずかに17名となったのです。 津軽藩士殉難事件といわれる悲劇で、町民公園には、1812(文化9)年建立の「津軽藩士死没者の供養碑」(斜里町有形文化財)があるほか、藩士の墓所跡、さらには曹洞宗禅龍寺(斜里町本町47-2)に津軽藩士死没者の過去帳も残されています。墓所があった場所には、何も残されておらず、墓所があったと推測される場所が斜里町の史跡となっています。>越冬で多くの犠牲者を出した津軽藩のシャリ場所警備は、翌1808(文化5)年に会津藩に引き継がれています。現在、斜里町で『しれとこ斜里ねぷた』(例年7月下旬の金・土)が行なわれるのは、そんな斜里町と津軽との関係を背景に、青森県弘前市との友好都市盟約があるからです。『しれとこ斜里ねぷた』の際には殉難慰霊碑前で、慰霊祭も行なわれています。ちなみに当時のシャリ場所は、能取から知床岬までの領域。幕末の1859(安政6)年に会津藩は本営陣屋を標津(しべつ)に置き(シャリには出張陣屋)、本格的な蝦夷地経営と開拓に乗り出しましたが、財政的な理由もあってあまり成果を上げずに明治維新を迎えています。」
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