岐阜農場事務所跡

説明板

令和5年12月24日(日) 浦幌町下浦幌

 浦幌の市街を過ぎて南下し、下浦幌の原野の中に岐阜農場事務所跡の説明板が立っていた。周囲には祠や神社もあった。説明板の概要は以下のとおり。

【岐阜農場事務所跡】・・・往時、岐阜農場事務所が設定されていたこの地にはニレの巨木が大きく枝を広げていた。同農場は、明治29年岐阜県選出衆議院議員大野亀三郎らが設立した第2岐阜殖民合資会社によって開墾された。同年下浦幌原野に299万坪の予定存地の指定を受け、8月農場管理人下野松太郎らを派遣して土地選定を決定。プラオ3台、ハロー2台を購入し人夫を雇って35町歩を開墾、草小屋30棟を造作。翌年、小作人59戸、31年に16戸を受け入れ。小作人は、岐阜県54戸、富山県8戸、石川県6戸等からなり、契約は1戸1万5千坪(約5ヘクタール)を配当し、5カ年で墾成し、1年間の食糧と農具、種子、家具などの現品を貸付け、小屋掛料7円を支給して3~5年で返納させ、開墾料を1反につき樹林地2円、草原地50銭を支給した。直轄事業として、排水溝数百間を掘削、試作地を設け、馬匹も改良。明治36年種牡馬(フランス・ライティン号)の借りた。農場地は川に囲まれた地域で地味肥沃であったが、泥炭性湿地で洪水もあり、経営上障害もあったため、大正14年蘇原銀行の手に渡り、昭和7年には清水の広川宅一郎、翌8年には大島角治らに渡り、翌10年耕作者に開放。岐阜農場は、熊谷農場、土田農場とともに浦幌開拓時代初期の三大農場と称され、本町の発展に大きく貢献した。

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