星野稲荷神社・脳天大神・並木凡平碑・小樽冷水不動尊

石碑等(開拓の歴史)

平成27年(2015)11月22日(日)家~(国道5号線の南側の道路)~星置神社~(国道5号)~小樽市新光5丁目 約30.3km 4時間28分 

 今日は家の行事もなく、仕事も無くなったので、長距離練習へ。赤レンガ走友会の長距離錬成会のコースである小樽の朝里の湯の花まで走ることに。
 家を10:30頃に出発。国道は交通量が多いので、一本南側の道を果てしなく小樽方面に向かって走る。手稲本町までは何回も通った道だが、稲穂、金山から初めて走る道になる。道は真っ直ぐではないが、国道に合流することなく走る。金山地区を過ぎて、星置川沿いに出ると、そこは星置神社でありここで国道5線に戻る。
 川を渡ると小樽市星野になり、左手の高台に星野稲荷神社が見える。 ネットによると次の通り。

 <転載はじめ>
当神社は明治30年9月、当星野地区の開拓を志した角田長之助外10数名が、崇敬心の寄り所として石造りの社殿を造営したものである。以来年々盛大な例大祭を行い、石灯籠・狛犬・手洗鉢が寄附され、昭和31年植林を売却その収益でトタン屋根・ブロック側壁に改築、トド松1500本を植樹、同時に青銅の大鳥居が寄附建立され、樹齢30年を越える緑豊かな森林と共に、着々と神社神域としての形態・景観を整えている。平成8年7月、宗教法人星野稲荷神社として承認、登録される。
<転載終了>  

 次に銭函天狗山に登るときにいつも気になっていた「脳天大神」・「蔵王寺」に向かう。国道から山側の道を登り、高台にそれはそびえていた。お坊さんの奥さんが掃除をしていて、境内はとても綺麗であった。以下、ネットより借用。

<脳天大神>
 昭和26年、当時の金峯山寺管長であった五條覚澄大僧正猊下( げいか )が、新しい行場を開くために、蔵王堂の裏の谷間を下っていったところ、子供たちにいたずらされ、頭を割られた蛇が死んでいました。 子供たちをたしなめ、その蛇を近くの洞窟に安置し、回向を手向けて帰りますと、その夜、「われは蔵王権現の変化神・脳天大神( のうてんおおかみ )なり、先ほどの蛇は人々の苦しみを、あのような姿に変えて見せたのである。多くの人々の、特に頭の病や、悩み苦しみを救う為に、われを脳天大神として祭られたし。」という霊示をうけ、この地に、脳天大神を祭祀することとなったのです。それ以来たくさんの人達が脳天大神の不思議をいただかれ、その御霊徳によって、この吉野の深い谷に多くの参拝者が一年中絶えることなく訪れるようになり、首から上の病気だけではなく、色々な願いを持った方々、又は入試合格を願う人々の大祈祷所として『脳天大神-のうてんおおかみ』は『のうてんさん』または『脳天大神-のうてんだいじん』などと呼び親しまれて、日本国内はもとより遠く外国からも、たくさんの人達が参拝されております。当山の脳天大神は北海道別院として、その御分霊をおまつりしております。 また、最近では小樽のパワースポットとしても人気を集めております。 当山 蔵王寺は、眼下に石狩湾を一望し、手稲山の山すそに抱かれた、大自然を道場とする山岳宗教であり、金峯山修験本宗( きんぷさん しゅげん ほんしゅう )-修験道-の寺院であります。 >修験道は、大自然の霊気の中に身をおいて、改めて自己を見つめ修行することによって、自然と一如の境地を目ざす、実修実験の宗教であります。 日本には、昔からお参りするだけで我々人間の罪、穢れ(けがれ)が浄められるといわれる九品浄土( くぼんじょうど )があって、本山( 奈良県吉野山 ) 金峯山寺( きんぷせんじ )は、その一つで金峯山浄土といわれ、はるか奈良、平安の昔から人々の信仰を集めてまいりました。 当山は、その金峯山寺の別院となっております。  

 銭函、見晴、桂岡に来ると微妙に登りで、気温も下がって寒くなってきた。ネックウオーマーがとても役立つ。張碓までくると登りがきつくなるが、何とか止まらないで走る。登りきると張碓トンネルで、歩道はあるもの、すれ違う車が怖い。
 しばらく走り、下りになってくると。左手に碑が見える。
 並木凡平の歌碑と小さな祠「朝里不動尊」である。ネットより借用

<並木凡平歌碑>碑文
「廃船のマストに/けふも浜がらす/鳴いて日暮れる張碓の浜」

並木凡平(なみきぼんぺい)
1891(明治24)年5月23日~1941(昭和16)年9月29日

 並木凡平は本名篠原三郎。札幌生まれ。七歳の時に両親とともに台湾に移る。1905(明治38)年両親が死亡したため叔父に引き取られて札幌に戻る。この頃より「文章世界」「秀才文壇」などに和歌、俳句、短文などを投稿、時折掲載される。1909(明治42)年「北海新聞」を振り出しに新聞記者生活に入り、1920(大正9)年道内の新聞社三十数社を遍歴の後小樽新聞社に入社。
 凡平の短歌は、定形律の口語歌で生活感に満ち溢れており、人柄の優しさと相まって多くの人々に親しまれ愛された。1927(昭和2)年に自ら編集発行して「新短歌時代」を創刊、1931(昭和6)年終刊。ついで「青空」を創刊。1941(昭和16)年室蘭において長逝。主著に「赤土の丘」「並木凡平全歌集」など。
 歌碑は凡平門下生はじめ彼を慕う多くの人々によって建立された。碑文は雑誌「触土」{1928(昭和3)年3月号}に収められたもの。

 <小樽冷水不動尊>
石碑には次の通り書いてあった。
天狗堂
昭和十一年九月之建、塚原啓道、沖崎保子、大谷一之、大谷奈實、氷山友作、稲葉竹治

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