中山道(高崎宿~板鼻宿)

中山道

令和6年(2024)4月28日(日) 高崎宿~板鼻宿(7.2km)
当日の総走行距離 19.9km 5時間20分

 岡醤油醸造所事務所のところを右に曲がるとお城みたいな家が見えてきた。複雑な交差点を左折し、臼井川を渡ると赤城山等が見えてきた。

 家族連れのお父さんに案内してもらって下豊岡の道しるべの交差点に辿り着いた。非常に分かりにくい。

【下豊岡の道しるべ】(高岡市のホームページから転載)
 この道しるべは中山道と草津道の分岐にあったものです。正面には「榛名山・草津温泉 かわなか・かわらゆ・はとのゆ温泉」、右側面に「従是 神山三里・三ノ倉五り半・大戸九り半」、「左側面に「左中山道 安中・松井田・横川」とあり、草津温泉などの温泉地への案内板としての役割が大きかったと思われます。これが建てられた当時、多くの人たちが草津温泉をはじめとする温泉地を訪れていたことが窺えます。裏面には、現在は薄くなって読めませんが「東澳梅顛巌書」とあったようです。梅顛は、岩鼻で寺子屋の師匠をしていたといいますが、詳しい経歴は不明です。明治時代以降、道路拡幅などに伴い2度にわたり移設されましたが、平成10年に本来の所在地に戻す工事が行われました。現在はかつて中山道と信州道の分岐点であった下豊岡の八坂神社前に建てられています。

 しばらく歩くと若宮八幡宮に到着。なんとここは仁徳天皇を祀り、鎌倉時代の創建。

【若宮八幡宮後由緒】(ポイント)
 祭神:仁徳天皇。平安末期、永承六年源頼義・義家父子が建立。前九年の役の勃発時に前父子がこの地に仮陣屋を設け逗留、千勝祈願のために当社を設立。以来、武将、兵士、大衆の尊崇深く、鎌倉時代に里見太郎の三男豊岡三郎というものこの地で当社を崇敬。寛文二年幕府代官諸星惣左エ門らが中心になり社殿を修築。江戸末期には江戸の火消し新門辰五郎、明治期には乃木大正も参拝。

 この辺は、達磨屋さんが多い。八幡宮のすぐ近くに上豊岡の茶屋本陣があった。

【上豊岡の茶屋本陣】(市のHPより)
 上豊岡の茶屋本陣は、中山道の高崎宿と板鼻宿との間に設けられ、大名の参勤交代や上級武士・公卿の喫茶や昼食等のために用いられた休憩施設です。宝暦7(1757)年には日光例弊使であった五條宰相菅原為成が、また文久元(1861)年には皇女和宮御下向の際に公卿などが客人として立ち寄ったことがわかっています。茶屋本陣の建物は、既にあった居住用の主屋(18世紀中頃築造)と接続する離れ座敷として19世紀の初めに増築されています。大名などが休息をとる「お座敷(オザシキ)」は8畳2室からなっており、北側の部屋は「上段の間(ジョウダンノマ)」、南側の部屋は「次の間(ツギノマ)」と呼ばれ、上段の間には違棚、床の間、書院が設けられています。

 旧道から国道沿いに出ると左手にこんもりとした樹木、その向かいに神社があったが、ここが藤塚の一里塚・浅間神社富士山だ。

【藤塚の一里塚・浅間神社富士山】
 説明板によるとここは中山道の二十八番目の一里塚と、八幡村と豊岡村の村境に位置していたそうだ。ちなにに浅間様は、坂上田村麻呂が勧請したことから、その伝説が多い東国で信仰が多かったそうだ。

 そしてまた、神社があった。ここも特徴がある神社だ。

【天照皇大神宮・洪水祈念之碑・射水神】
 洪水は明治43年、この地は壊滅。疫病の発生を抑えるため、歩兵第15連隊が派遣。大正九年赤岩下が地滑りで碓井川が塞がれた。村民は堤防を作り、村を守ることを願い射水神を建てた。

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