中山道15安中宿

中山道

令和6年(2024)4月29日(月) 安中宿 当日の総徒歩距離 25.2km 7時間7分

 道を間違え、坂道を登ると安中宿であった。安中宿は、井伊直正の子、直勝が安中を領した元和元年(1615)に整備されたそうだ。まずは、熊野神社にお参りする。この辺は安中城趾でもある。

【熊野神社】
 熊野神社の起源は永禄2年(1559年)に安中越前守忠政が安中城を築城したとき、熊野三社を歓請して安中城の鬼門の守護神としたのがはじまりと云われています。 以後、安中藩歴代城主に厚く信仰され、安中城下の総鎮守として住民の尊崇を集めた。

 旧道から少し上の道を歩くと旧碓井郡役所であった。

【旧碓井郡役所】
 太政官布告第十七号、「郡区編成法」により明治11年12月碓氷郡役所が開庁しました。当時70ヶ町村(人口約4万人)を統轄した郡役所は伝馬町の旧本陣須藤国平氏宅を仮用していましたが、明治21年6月30日、現在地約500坪に白壁の壮大華麗な新庁舎を落成しました。しかし、不幸なことに明治43年9月20日夜原因不明の出火により全焼、書類もことごとく烏有に帰してしまいました。そこで新たに工を起し、同所に明治44年9月20日新郡役所を竣工しました。これが現存する碓氷郡役所であります。この時の棟梁は安中町谷津の柴田平吉、間口17間奥行5間、建坪85坪には安中の杉並木10本が切られて用材として用いられました。その時の開庁式の様子を上毛新聞は「碓氷郡役所開庁式、名士雲の如く集る、安中町空前の盛観」とその盛況ぶりを伝えています。(以下、略)

 そして、旧役所を過ぎ歩くと綺麗な建物の教会であった。由来をホームページで調べると新島譲が関連している。

【安中キリスト教会】(ホームページから転載)
 1878年(明治11年)3月31日新島襄より湯浅治郎をはじめとする地元の求道者30名(男子16名、女子14名)が洗礼を受け、安中教会が創立されました。群馬県では最初のキリスト教会であり、同時に、日本人の手により創立された日本で最初のキリスト教会でもあります。
1919年(大正8年)新島襄召天30周年を記念して新島襄記念会堂が竣工し、以来90余年ここで安中教会の礼拝は守られています。1926年(大正15年)5月開園の安中二葉幼稚園、1947年(昭和22年)4月開学の新島学園は、安中教会の信徒の信仰が礎となって創立されました。(以下、略) 

 安中小学校のところが、安中城趾であり、石碑が残っていた。

【安中城】(ウイキペディア等より概要転載)
 永禄2年安中重繁により築城。永禄5年同氏が武田氏に降伏、武田家上野先方衆に組み入れる。天正10年織田徳川連合軍による上野国を鎮撫した織田勝長が入城。天正18年小田原征伐により安中城は攻められ廃城。慶長19年井伊家が入封し安中城が改築。

【旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)】
 旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)は、幕末から明治初期にかけて猪狩家幾右衛門懐忠(やすただ)が藩中藩郡奉行として住んでいました。 安中藩には三人の郡奉行とその配下に四人の代官がいて、年貢の割り当てから徴収、お触れの通達や領内の治安、裁判といった民政をつかさどる役職を郡奉行が行っていました。旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)の母屋は、県内では珍しい曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台付きの玄関、屋根、武者窓、砂ずりの壁など素朴で重厚な地方武家屋敷の姿をとどめています。また、旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)は、安中城址の南西の部分に位置し、この役宅の西には「旧安中藩武家長屋」や旧安中城西門枡形(ますがた)、役宅の長屋門の北には大名小路、袋小路や藩士の学校であった造士館跡、安中藩会所跡があります。

【醤油醸造元 有田屋】
 江戸末期・天保3年に味噌・醤油醸造元として創業。安中藩御用達。(以下略)
 

 安中大木戸等をすぎて住宅地の中を進むと新島襄が住んでいた家と石碑があった。

【新島襄先生旧宅】
 新島襄は、天保14(1843)年、安中藩士の子として江戸・神田に生まれました。21歳で渡米しキリスト教徒となり、帰国後父母の住む安中へ一時帰郷し、キリスト教を伝えました。その後、神戸から京都へ向かい、同志社英学校を設立し、47歳でこの世を去りました。「文教のまち」として知られる安中市は、安中藩主、板倉勝明によってその基礎が築かれました。幼少期の襄はこの藩主の影響を強く受けましたが、自身もキリスト教の教えを伝えるなど、安中の文化に多くの影響を与えました。湯浅治郎、湯浅半月、海老名弾正、柏木義円、千木良昌庵など、襄の思想に感化された多くの文化人がいます。新島襄は明治7(1874)年11月29日、この家で10年ぶりに父母姉妹と再会しました。ここは新島襄が脱国から米国での苦学の経験を活かし、日本での活動を始める第一歩となった場所です。その後、襄は京都に同志社英学校を設立し、キリスト教を基にした人格教育を行うことに全力を尽くし、明治23(1890)年1月23日に神奈川県大磯で亡くなりました。この建物は昭和38年、来訪者が新島襄の業績をしのぶとともに、その精神を受け継いでいくことを願い、遺品や関係書類、写真などを収集して展示する施設として市が移築改修し、翌年に開館したものです。

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