令和4年4月3日(月)距離約2.5km 約38分
モイレ山(65.5m)、役場の水松、明治神社、軍人聖諭、下ヨイチ運上屋
蒔田山登山のあと、余市町役場に車を停めて市街地の中にある低山「モイレ山」に登ることにする。ここは余市水産博物館の敷地の隣の藪の中にあり、夏の間は訪問が困難であった。役場前には水松があり横に由来の石板があった。
【由来】
この水松は明治二年四月会津藩士百七拾六名と共に町内山田村の原始林内に移住し未開の地を拓いて林檎を栽培した川俣友次郎氏が同二十九年全国博覧会にりんご緋衣を出品し見事受賞したのを祈念して昭和十一年旧役場庁舎新築の際余市町の発展を念じて樹齢八十年の大木を自庭からこの庁舎前に寄贈したものである
由来を伝える者 計良幸太郎 坂本利太郎 沢田義夫
明治神社の参道を登り、神社にお参りしてからその横の少し上に「聖諭」の碑があった。裏面を見ると昭和七年十一月一月三日建立 勅諭 拝受満五十年記念とある。そこには以下のように軍人の心構えのようなことが書かれてあった。
【聖諭】
一 軍人ハ忠節を盡すを本分とすべし
一 軍人ハ禮儀を正しくすべし
一 軍人ハ武勇を尚ふべし
一 軍人は武勇を重んずべし
一 軍人は質素を旨とすべし
陸軍大将 鈴木荘六 謹書
神社の裏山から山を登りモイレ山の山頂へ登る。どこが頂上はわからないが、なんとなくピークを極めたので良しとしよう。
山を下り明治神社参道の途中からお地蔵さんの列があるので入る。そこは茂入山阿弥陀院であった。
道路まで降りて、モイレ山周辺の道路を走ることにする。しばらく走ると重要文化財史跡「旧下ヨイチ運上屋」があった。
【説明板】
蝦夷地における知行主と知行商場居住の蝦夷との関係は、はじめ友好的に行われていた。しかし、両者の勢力にへだたりが生じ、内地商人の資本力の進出、とりわけ17世紀のなかば前から活躍し始めた近江商人が力を発揮し始めると、知行主は蝦夷交易に必要な資本等を商人から借りて蝦夷交易に従い、獲得した品物を商人に渡すという場所制度が生れた。その後、蝦夷交易が複雑になると、交易権も商人の手に帰するようになり、知行主は、知行主の場所を請負う商人を場所請負人として選び、場所請負人は知行主に運上金・差荷を納めるかわりに、知行主の場所における一定の交易独占権を行使することを認められ、請負場所に運上屋を設け、支配人等を遣わして、蝦夷に米・酒・塩・小刀等を送り、蝦夷の漁獲した水産物や手工品等と交換し、これを内地の市場に送って売りさばき、利益を得ることとなった。(場所請負制度)
ヨイチ場所は、すでに18世紀にはその存在が認められるが、おおむね上限二つの運上屋が設けられ、運上金の額は三百両前後であった。このうち現在残っているのは下ヨイチ運上屋である。
この建物は、嘉永6年(1853)場所請負人竹屋長左衛門が建てたもので、翌年一部を継ぎ足した。寛政当初は桁行22間、梁間8間、柾屋根、上手が座敷で通行の役人や勤番下役の止宿所にあて、中央に広い台所と表裏に帳場や番人の居間、下手には雑部屋と土間を配していた。明治に入り、規模を縮小して模様替えを行い、敷地も狭くなり付属建物等を取りはらわれたが、現在残っている唯一の運上屋であり、幕藩体制の蝦夷地経営を知るうえで貴重な歴史遺産である。
運上屋からボートマリーナを経由すると出発地の役場にあっという間に到着した。
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