北斗市茂辺地の史跡・当別丸山

城郭・チャシ

平成25年3月30日(土)単独 北斗市茂辺地駅~茂別館~トラピスト修道院~当別丸山~茂辺地駅 11:00頃出発 13:30頃頂上 15時頃期間 13:03マイル(21km) 3時間49分

以前から狙っていた茂辺地の茂別館跡を訪問したあと、走ってトラピスト修道院の裏の当別丸山まで走って登ることにした。当別町丸山は低山ながら函館の方からよく見える山であり、前から一度登ってみたかったのである。
 朝、せたな町を出て北斗市茂辺地に向かい到着する。茂辺地まで函館新道が伸びていて、結構早く着く。茂辺地には高校の同級生、後輩がいたはずだが、何をしているかな?
 茂辺地駅に車を停めて、茂別舘跡に向かう。すぐに矢不来神天満宮茂別館跡につく。ここも古い、嘉吉年間創立というから室町時代だ。展望がよいところであるのは、やはり昔は敵の襲来と防衛上の利点が多いからであろう。
 そして、国道を走って当別方面に向かう。岩のり養殖の人工岩場が作られている。この取組をせたな町でできないのかな?と考えながら走る。そして、トラピスト修道院の並木の参道を走る。石別中学校のところに「ローマへの道」なる柱があった。これも車では気がつかない。トラピスト修道院を参ったあと、墓地の方に抜けて、ルルド洞窟に向かう。雪がまだ残っていて、観光客もチラホラ。ここの登山道はよくわからなく、ルルドの周辺をウロウロする。とりあえず展望台の方に向かうと、踏み跡もあり、それをたどって登る。高度を増すと雪が深くなり、靴が埋まり始める。靴の中がビショビショになってきた。やはりスノトレだとキツイが我慢して登る。展望台で景色を眺めたあと、登山道に戻る。傾斜がキツイところでは、ズボズボ埋まりながら登る。高度を上げて稜線に着くと埋まらなくなるが、今度は雪が降ってきた。そうこうしているうちに、頂上に到着。少し木立があるが、函館方面、木古内方面、大野・七飯方面が一望できる。
 頂上は早々にあとにして下り始める。すぐに単独の女の人とすれ違う。山で初めて会う人だ。下りも埋まりながらであるが、やはり早い。あっという間に墓地に到着。ここで観光客の人に車に乗せてもらい、駐車場まで行く。このあと走って茂辺地に行くと言ったらびっくりしていた。そして駐車場から、車ではいけないが、男爵資料館に抜ける小道を抜けて、茂辺地に帰りました。
 そのあと、旧大野町のせせらぎ温泉に入ったあと、森の実家に帰りました。

【茂辺地鮭卵孵化場跡】(説明板)
 明治11年に茂辺地川の鮭から採卵したものを七重勧業試験場で試験的に実施され、翌年稚魚が孵化。翌年に北海道初の民間(酒井宮次郎等)による鮭卵孵化社が設立。(以下略)

【国指定史跡 茂別館跡】(説明板概要)
 嘉吉三年(1443)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まると言われ、南の大舘と北の小館からなっている。大舘は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ東は空堀を巡らしっている。また、小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。北海道の室町時代の和人の館のうち、志海苔館跡、大館跡、上ノ国勝山館及び上ノ国花沢館の四件はすでに指定されているが、今回(昭和57年)これに加え、蝦夷島中世史の解明に資するものである。(以下略)

【トラピスト修道院の沿革】(説明板概要)
 明治29年にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に望む当地にトラピスト修道院を設立したが、トラピストの歴史は11世紀までさかのぼる。聖ロベルト(1018~1111)は、現在のフランス・シトーの地に新修道院を創設(1098)、ここからシトー修道会が生まれた。そして1664年、シトー修道会に属するトラップ修道院でより厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れをトラピストと呼ぶ。トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には七つの修道院(そのうち5つは女子でトラピスチヌ)をもち、国内には137(内女子は50)があり、聖書の教えと、聖ベネディクト(480~547)の修道戒律に従い「祈り・労働・聖なる読書」を中心とした感想生活を送っている。

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