増毛町 史跡訪問ランニング
令和3年10月16日(土) 11.0km 1時間45分
増毛町役場→増毛厳島神社→開拓使増毛外五郡役所跡→増毛治安裁判所跡→旧商家丸一本間家→増毛駅→市立札幌病院増毛出張所跡→開拓使増毛造船所跡→入舟町浜茶屋跡→水戸藩主一行宿営の場所→増毛運上屋跡→山口藩増毛出張所跡→津軽藩勤番越年陣屋跡→秋田藩元陣屋第二台場跡→増毛土木派出所跡→天塩国水産会さけます孵化場跡→リンゴ栽培の父藤原翁の碑→増毛新郭跡→増毛税務署跡→秋田藩増毛元陣屋跡→御料局札幌市庁増毛出張所跡→秋田藩元陣屋第一台場跡→増毛灯台→善伝寺跡
今月は吉方が北方でもあるため、増毛まで長躯して史跡訪問ランニングに。増毛町の教育委員会が熱心であり、史蹟標柱が充実している。
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役場に車を停めて走り出す。向かいの増毛厳島神社にまずはお参りする。この本殿は明治34年の建立だそうだ。社殿は組み物や彫刻で豊かに装飾されている。これを手がけたのは越後(新潟県)の棟梁で、函館の高龍寺の本堂も手がけているそうだ。
役場のあったところは、「開拓使増毛外五郡役所跡」である。
【開拓使増毛外五郡役所跡】
江戸から明治へと時代が移り変わる中、行政制度はめまぐるしく変化していきます。明治3年に開拓使が成立すると、北海道は11国86郡に管轄され、増毛は宗谷支庁・天塩国増毛郡に属しました。明治13年に開庁した留萌郡役所はわずか1年4ヶ月で廃止。明治14年7月に増毛に移庁し、庁舎が永寿町3丁目に設置されました。「増毛外五郡役所」とは増毛・留萌・苫前・天塩・中川・上川の六郡を指していますが、当時の郡庁は更に宗谷・枝幸・利尻礼文郡庁も兼務していました。
役場の隣は、増毛治安裁判所跡である。
【増毛治安裁判所跡】
明治維新と共に蝦夷地は北海道となり、開拓史が設置され、道の開拓は徐々に進んでいきました。明治14年には留萌郡役所が増毛に移転し、増毛ほか五郡役所となります。これにともない、犯罪や訴訟の事務を取り扱う札幌刑法課出張所も留萌から増毛へと移されました。これが増毛治安裁判所です。当時は天塩国6郡の他、宗谷、枝幸、利尻、礼文の4郡も管轄下におかれていました。増毛治安裁判所は、留萌簡易裁判所が設置された昭和23年にその役目を終え、廃止となりました。
海岸の方に向かい道道までくると、旧商家丸一本間家の古い建物があった。その隣も古い建物が並んでる。増毛駅の方に向かうとよくテレビに出る風待ち食堂があった。駅を通り過ぎて、港の方の史跡を訪問する。
【市立札幌病院増毛出張所跡】
明治5年、開拓使により「増毛派出病院」が設立されました。
明治8年に札幌病院に移管され「留萌出張病院増毛派出病院」と名を改めます。翌年にも「増毛病院出張所」と改称、程なくして「札幌病院増毛派出所」となりました。明治12年からは「公立増毛病院」となり、明治21年には弁天町3丁目の高台に移転します。人口が急増した背景もあり、その後、阿分、岩尾にも出張所を設け、医師が一名ずつ常駐しました。明治33年に町立病院となった後、昭和23年に北海道に移管され、道立増毛病院となり、暑寒沢へと移転します。道立増毛病院は昭和56年に閉院。同じ年、その後を受け継ぐように増毛町立市街診療所が開設され、現在に至ります。
【開拓使増毛造船所跡】
船改所は、港を出入りする船を管理するために、開拓使が設けた機関です。増毛には明治13年の7月に設置されました。 しかしこの機関は、設置されてからたった3ヶ月しか経たないうちに、廃止されてしまいます。当時、船改所の持つ仕事は税務署や水産組合など新しくできた組織で取り扱うようになり、船改所は随時廃止されていく時代の流れにあったのでした。
【入舟町浜茶屋跡】
第11代、水戸藩最後の藩主、徳川昭武は、明治2年に北海道天塩国のうち苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と北見国の利尻郡、計5郡の土地割渡しを出願し、その土地の支配を命じられました。そして翌明治3年、昭武は、北海道を視察するため自らも参加し、75日間をかけ各地を周ったのです。増毛には増毛山道を踏破して訪れ、この地に宿営しています。水戸藩が北海道開拓に熱意を持った情勢には様々な見解がありますが、一説には水戸徳川家として家臣たちの新天地を北海道開拓に求めようとしたとも考えられます。しかし、明治4年に廃藩置県が行われ、開拓使が誕生したことで昭武の夢見た北海道開拓は水の泡と消えてしまったのでした。
【増毛運上屋跡】
運上屋は江戸時代の各地に設置されていた機関で、蝦夷地における松前藩の出先機関や宿場として使用されていました。もとは松前藩がアイヌとの交易拠点として各地に設けていたものですが、後に漁業が活発になると、漁場の経営もその役割となります。江戸時代の蝦夷地では、米が生産されていなかったため、松前藩では俸禄の代わりに「場所請負人制度」を敷き、交易の権利を家臣に与え、運上屋はその中心的役目を担いました。運上屋の経営は商人が受託し、租税として運上金を収めたのです。増毛では1750年頃から、村山家・伊達家の商人が運上屋を経営し、明治に入り場所請負人制度が廃止されるまで続いたのでした。
【山口藩増毛出張所跡】
明治維新直後、蝦夷地が北海道となる前に、39の領地に分割された時期がありました。明治2年に蝦夷地開拓が定められた際、山口藩や水戸藩が現地の領有と入植を申し出たのです。留萌や増毛は江戸時代から好漁場であったために、秋田藩を含めいくつかの藩が願い出ましたが、最終的に明治維新で功績のあった長州藩こと山口藩が増毛を担当することとなりました。早速山口藩の増毛出張所が設置されますが、明治4年に廃藩置県が行われると、蝦夷地は北海道として統一。開拓使の管理下に置かれることとなり、山口藩も増毛を引き揚げていきます。結局山口藩の滞在は、たったの1年半という短い年月で終了してしまったのです。
その後、国道を浜益方面に走る。国稀酒造の近くに津軽藩勤番越年陣屋跡があった。
【津軽藩勤番越年陣屋跡】
1804年、長崎へ来航したロシアの特派大使レザノフは、日本に対し通商貿易を申し出ましたが、鎖国中であったために拒絶されてしまいます。このことが引き金となり、彼の部下が樺太や択捉島を襲撃する事件が発生しました。幕府は北方の事態に危機感を覚え、蝦夷地を幕府の直轄とし、東北諸藩に蝦夷地と樺太の警備を命じるのです。しかし、慣れない北の極寒や栄養失調の中、宗谷で越冬中の津軽藩士は次々と倒れ、230名中半数のものが命を落とすという大惨事となります。そのため津軽藩は、越冬するための陣屋を増毛に築いたのでした。この頃の増毛は、北方警備の中継拠点という役割を担っていたのです。
さらに国道を南下し、川を渡り、海岸上の高台が秋田藩元陣屋第二台場跡だった。大砲が設置されていた。
【秋田藩元陣屋第二台場跡】
秋田藩がロシアに対する備えとして設置したこの第二台場にはホイッスル砲1門、和製の大砲が3門備えられていたことが、安政3年(1856年)の資料からわかっています。ホイッスル砲は当時における最新式の大砲で、砲弾の中にも火薬が詰められており、爆発することで着弾した周囲に被害を与えることができるものでした。ただし、最新鋭とはいえ、たったの1門では決定的な戦力とはなり得なかったようです。残る3門の和砲は火縄銃を大きくした簡単な構造で、鉛玉や鉄の塊を飛ばすだけのものでした。
流派がいくつかあり、火薬の扱いなどは秘伝とされていたようです。
その後、国道を留萌方面に走り内陸部に入っていくとすぐに、増毛土木派出所跡があった。
【増毛土木派出所跡】
明治維新直後、蝦夷地が北海道となる前に、39の領地に分割された時期がありました。明治2年に蝦夷地開拓が定められた際、山口藩や水戸藩が現地の領有と入植を申し出たのです。留萌や増毛は江戸時代から好漁場であったために、秋田藩を含めいくつかの藩が願い出ましたが、最終的に明治維新で功績のあった長州藩こと山口藩が増毛を担当することとなりました。早速山口藩の増毛出張所が設置されますが、明治4年に廃藩置県が行われると、蝦夷地は北海道として統一。開拓使の管理下に置かれることとなり、山口藩も増毛を引き揚げていきます。結局山口藩の滞在は、たったの1年半という短い年月で終了してしまったのです。
さらに内陸部に走り、増毛高校の横を過ぎ、パークゴルフ場のところが天塩国水産会さけます孵化場跡だった。
【天塩国水産会さけます孵化場跡】
増毛の味覚としてサケが定着するようになるまでには、幾多の試みがありました。昭和13年、天塩国水産会がこの地に孵化場を建設し、サケの放流を開始したのです。当時は、暑寒別事業場と呼ばれており、200万粒のサケの卵を収容する能力があり、網走と知内の事業所から移入して放流が始まりました。その後、用水量の不足や水温低下が原因で事業継続は難しくなり、昭和35年で孵化放流は中止されてしまいます。しかし、壊滅的になったニシン漁に代わる漁業資源としてサケへの期待は強く、昭和38年に道立水産孵化場が増毛に支場を建設し、現在に至っているのです。
その後、果樹園が広がる方面に走る。リンゴ栽培の父の碑が中々見つからなかったが、神社がある森の横にその碑はあった。
【リンゴ栽培の父藤原翁の碑】
ここには増毛町における果樹栽培の先駆者、藤原筆吉の碑が立てられています。明治16年に筆吉が暑寒沢にリンゴの苗を植え付けた時から、増毛町の果樹園の歴史が始まりました。精米業で資金を蓄え、果樹園が将来を期待された産業だという希望を抱いてのスタートでしたが、初めの頃は肥料のやり方や剪定の技術も確立されておらず、継続して十分な収穫を得るまでには大変苦労したようです。筆吉は町会議員として、また果樹栽培組合長として奔走する傍ら、最新の技術を自ら習得しに出かけるなど努力を惜しまない人でした。そのかいもあり、大正5年に導入された「デリシャス」はその味の良さが評判になり、札幌や東京でも増毛リンゴが消費されるようになりました。
果樹園の地帯から街に戻ると「増毛新郭跡」があった。日本海側で昔栄えた街には花街が多くあったが、増毛も例外ではない。
【増毛新郭跡】
ニシン漁が最盛期の増毛町には、遊郭が数多く営業していました。明治16年に小野寺富三郎が貸座敷の営業許可を取得して以来、町内には畠中3丁目から4丁目を中心に、いわゆるお座敷が増えていき、歓楽街を形成します。増毛民話の藤十郎と芸者菊丸の悲恋話などが伝わっているのもこの時代です。江差出身の女将が芸妓を小樽へ出稽古させるなど、芸道の水準を上げる努力も続けられていました。中でも有名だったのが、料亭「やなぎ屋」です。主人の今里竹茶は川上音二郎一座に俳優として在籍したこともあり、増毛に移り住んでからは荻原井泉水の門下に入り、自由律俳句の普及に努めました。当時は他にも木村丁字などが活躍しており、文化面でも様々な活動が芽吹いていたのです。
そして、陣屋に行く途中に増毛税務署跡があった。
【増毛税務署跡】
北海道では道庁が設置された明治19年以降、新しい制度が続々と発足し、同時に新たな税金が導入され、様々な改革が繰り返されていきます。明治29年に税務管理局が設置され、道内に新設された16の税務署の一つとして増毛税務署が置かれました。
北海道における税務署は、内陸にある空知税務署を除くと全ての施設が水産物営業人組合の所在地です。北海道では明治20年以降本格的に農地開拓が進んでいきましたが、この頃はまだニシン漁を中心とした漁獲収入による北海道水産税が圧倒的なシェアを誇っていました。
秋田藩増毛元陣屋跡は農林水産省の補助金を活用して、公民館的な建物になっていた。
【秋田藩増毛元陣屋跡】
1855年に秋田藩が増毛での北方警備を命じられ、翌年から侍の詰め所として元陣屋が建設されました。「黒船」で有名なペリーが浦賀に来航したのは1853年。時を同じくして樺太にロシア船が来航、武力を使わずに占拠する事件が起きます。このため、日本は急きょ蝦夷地と樺太における北方警備を行う必要に迫られました。蝦夷地は幕府の直轄地となり、東北諸藩が各地に陣屋を建設、警備と開拓を担うこととなったのです。秋田藩は増毛を警備の拠点とし、宗谷と樺太には出張陣屋を設置してロシアの南下に備えました。しかし出張陣屋のつくりは簡素で、冬の間には多くの凍死者や病死者が出ました。彼等にとって一番恐ろしかったのは、ロシア軍よりも北海道の厳しい自然だったかもしれません。
最後に増毛灯台方面にある史跡を訪問して、今日の史跡訪問ランを終了する。
【御料局札幌市庁増毛出張所跡】
かつては増毛にも御料林として指定された地域がありました。御料林とは明治憲法下において皇室の財産とされた森林のことで、明治23年には全国に50カ所以上、350万ヘクタールを有していたのです。現在、増毛稲田線こと、道道94号線が走っている町内地域に、「信砂御料」という地名が残っているのが当時のなごりで、この御料林を管理していたのが明治23年に設置された御料局札幌支庁増毛出張所でした。その後、大正3年に庁舎は留萌に移転し、増毛の施設は帝室林野管理局留萌出張所増毛分担区員駐在所となります。御料林は戦後廃止され、国有林として農林水産省の管轄になりました。
【秋田藩元陣屋第一台場跡】
幕末の時代、この頃の北海道ではロシアの脅威に備えた北方警備が行われていました。増毛には秋田藩が元陣屋を築き、警備拠点としていたのです。ここは、「秋田藩増毛元陣屋第一台場跡」と言って、秋田藩が異国船に対する備えのために砲台を設置した場所の一つです。幕末に砲台を設置した場所を「台場」というならば、東京の「お台場」は…そうです。ここもペリーの来航に対し、江戸を守る備えとして海上に砲台を築いた場所だったのです。
【善伝寺跡】
明治40年に編集された「増毛町沿革史」には、「真言宗の寺院で「普伝寺」という寺を秋田藩が建設したが、慶応元年に焼失し、ついに再建することはなかった」と書かれています。現在では、その痕跡を探ることも難しい過去の歴史ではありますが、秋田市には今も普伝寺が存続しており、当時の住職である識全師が寺号を持って増毛へ渡ってきたことが伝えられています。どういった経緯かは伝わっていませんが、町内の願王寺には普伝寺の名が刻印された鐘が残されており、当時を偲ぶ唯一の資料と言えるでしょう。秋田の普伝寺は1600年頃の創立と言われ、現在は東北三十六不動尊霊場の一つとなっており、多くの礼拝者が訪れるお寺としても賑わっています。
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