手稲バッタ塚

旅ラン

平成28年(2016)8月7日(日)JR稲穂駅~手稲バッタ塚~JR星置駅 約9.3km 1時間29分

 札幌の最高気温33度の予報でむっちゃ暑く、そして、昨日の30kmランニングの疲れが残っているが、北西の吉方で走ることに。今日の課題は、行ったことがない手稲山口バッタ塚。この場所は、手稲山口の斎場やごみ処分場の裏であり、なかなか行きにくいところであるが、行ってみることに。
 琴似からJRで稲穂駅で降り、走り始める。暑いし、昨日疲れが結構残っている。バッタ塚は初めて行くところなので、タブレットのGPSを頼りに行くと、山口の斎場の横を通り、ごみの最終処分場横の濁川の下流を行く。
 しばらく行くと、バッタ塚はこちらという看板があり、藪の中を行くと誰もいないバッタ塚が出現する。
 札幌市のホームページから転載すると次のとおり。ここは公園のようになっており、駐車場もあるので、自分が来た道と反対側の南のほうに向かうと、パークゴルフ場の中に出て、そして山口緑地から道が伸びていた。
 帰りは、JR星置までようやっと走り、バスで家に帰りました。

【札幌市のホームページから転載】

 明治13(1880)年8月、蝗虫(こうちゅう)、十勝でアイヌの人たちが「カタカタ」と呼んでいたバッタが大発生した。カタカタとはバッタの音からきたのだろうと言われている。そのカタカタは大群集となって日高、勇払原野へ移動。そこで群は2つに分かれ、一群は虻田方面へ向かったがもう一群が北上し札幌へ入った。そのときの様子。異様な音をたてて、雲のように押し寄せたかと思うと、その後には農作物はもとより、青い物は何も残っていなかった。植物ばかりではない。群れの中に毛布や油紙を投げ込んでみたら、それも食い尽くしてしまったという。群れが去った後には、ただ赤い土と、大量の卵が残されているだけだった。
この大量の卵。最初は皆、一冬で凍死するだろうと考えていた。しかし、厳寒期の2月に雪を除いて調べたところ、凍死している様子は全くなかった。びっくりした開拓使は各地に係員を派遣。防除に努めたが時遅く、また被害を受けてしまった。
その防除法、バッタの生態に応じて違う。早春には卵を掘り起こす。幼虫になると飛び立たないうちに穴や溝に追い込んで殺す。津軽海峡に動物分布境界線をひいたブラキストンが札幌にやって来たとき、郊外にはこのための細くて深い溝がたくさん掘られていた。バッタが飛ぶようになると、網で捕らえるか地に降りてきたところをたたきつぶす。成虫して群をなすと缶をたたいたり、鉄砲を撃って追うしかないが、こうなったらもうお手上げであった。
 
バッタ汚職

 明治15(1882)年に次いで明治16(1883)年も各地はバッタに襲われた。篠路も例外ではない。「8月10日ころ北東より蝗(こう)飛び来たり、農場及び茅(かや)、笹原一円群集し、茅、笹葉一枚も無し」「日々ブリキ板等をたたき追うといえども、かいもくハイ(ハエ)を追うごときにして効力なし」拓北に入植した滝本五郎は弟にこう書き送っている。農務局の係員も予想以上にひどい被害に驚いたという。
政府は卵を一升いくらで買い上げたり、人を雇って防除に努めたが被害は深刻になってきた。放っておいたら津軽海峡を越え、本州に飛んで行くかもしれない。ここにいたって駆除というより、バッタとの全面戦争という様相を呈してきた。政府は本州から相当の数の囚人を送り込んだ。バッタと戦う囚人部隊という訳である。また、バッタを追うために屯田兵を動員し、大砲すら撃ったという。
 この戦争につぎ込んだ費用も大変なものであった。ブラキストンによるとこのどさくさで不正に手を染める役人がいたという。今ならさしずめ「バッタ汚職」というところであろう。こうした大騒ぎにもかかわらずバッタとの戦いに決定打はなかった。バッタを大発生させたのが自然なら決着をつけたのもやはり自然だった。明治17(1884)年夏は低温で長雨が続いた。猛威をふるったバッタも勢力が弱まり、大発生はやんだ。

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