旭川神社

古木

平成28年(2016)7月31日(日)旭川神社~(田園の裏道)~永山市街~道道90号線~道道140号線~旭川神社 約10.5km 1時間26分

 三男の小学校のサッカー大会の全道大会@旭川の2日目。
 本日も試合の合間の時間があるため、旭川市内を走ることに旭川神社に車を停めて走り始める。ここ東旭川は、屯田兵の本拠地と練兵場があったところで、ここから街づくりが始まったようだ。ここが本来の旭川で、今の旭川中心街は忠別と言われていたそうだ。
 ここから東旭川駅の横を通り、北上して永山の上川総合振興局を経由していこうと思ったが、思ったより遠いので、永山6-5の交差点へ向かう裏道を走る。
 永山6-5の交差点から、道道90号線を南下。北海道の郊外によくあるショッピングセンターが連なる道だ。旭川ラーメン村のsaijoで塩ラーメンを食べ、道道140号線を通って旭川神社に戻る。
 旭川神社に戻ってから、旭川兵村記念館を見学する。

【旭川神社ご由緒(概要)】
 明治26年8月15日屯田兵入地1周年を記念して社殿・鳥居を建て木花咲耶姫神を奉斎。その後、出身地の崇敬神を祀りたいという希望の調整がつかなかったため、屯田第4中隊長菊地直人氏の仲介により天照大御神を奉斎することにし、明治32年同氏が伊勢神宮から御分霊を懇請し許可を得る(以下、略)。

【東旭川百年碑】
 自然岩に「百年碑」と刻まれ、隣の石の説明板には次のとおり概要が刻まれていた。「

東旭川百年の沿革
 明治二十五年屯田第三団体三・四両中
隊四百戸二千三百余名の入地により初め
て旭川村を称す。天を覆う密林を伐採し
耕地を拓き、学校を興し神社を建て、溝
路を穿ち逐年水田は拡がり、労苦効を成
し美田は道央に冠たり。
 日清日露両戦に従いて勝利を得たるも
犠牲少からず。先に道庁は本村を永山村
に属せしめ牛朱別とせるも村民肯ぜず、
分離独立を訴え明治三十一年東旭川村と
なる。
 屯田兵制廃せられるや、在郷軍人会と
なり公共に尽す。大東亜戦争に敗れ戦死
者三百余名を数え、窮乏極限に達す。復
興に努め諸政の改革により環境は整いテ
レビ塔は建ちぬ。
 旭川市と合併し、動物園は設けられ市
街化は拡がり、兵村記念館は衆目を集む
。近年工業団地は展け第二環状道路計画
は進み、此処に開基百年を迎う。碑を建
て先人の功を顕彰し、些か沿革を録して
記念とする。
旭川神社宮司 芦原巌夫 選文
雲流れ 糧充たれて偲ふ今日
楡に被むるや 先人の声
東旭川農業協同組合
組合長 近藤正忠
平成三年八月十四日 旭川屯田会建立1807(文化4)年、近藤重蔵 利尻からの帰途上川地方を探検。上川に番屋が置かれる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が上川探検し、アイヌ人306人を確認している。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称、石狩川筋神居古譚以北を石狩国上川郡とする。
1877(明治10)年、鈴木亀蔵(通称 亀吉)、上川郡初の和人定住者となり、交易雑貨商をを営む。。(上川最初の和人定住者)
1883(明治16)年、樺戸集治監らによる樺戸郡浦臼太~上川郡までの地理・地形・水利調査を行う。
1885(明治18)年、岩村通俊・永山武四郎一行、上川に入り、近文山より国見をする。
1886(明治19)年、空知太(現・滝川)~忠別太(現・旭川)まで囚人の労役により、上川仮道路開通する。
1888(明治21)年、上川二等測候所開設する。
1890(明治23)年、上川郡に旭川・神居・永山の三村を置く。
1891(明治24)年、永山村(現・旭川市永山)に屯田兵400戸入地する。神居・雨粉で杉沢繁吉が水稲の作付し、1斗5升の収穫をあげた。
1892(明治25)年、8月旭川村(現・東旭川)に屯田兵400戸入地する。(下東旭川兵村 第三大隊第三中隊。200戸。上東旭川兵村 第三大隊第四中隊200戸。)
1893(明治26)年、旭川神社社殿竣功。
1894(明治27)年、クラロマナイ川から延長1200間の灌漑溝を掘る。
1897(明治30)年、上川郡役所を旭川に移転開庁。字ウシシュベツ(東旭川)を永山村に編入。
1898(明治31)年、上川線空知太(現・滝川)~旭川間鉄道開通。旭川駅開業。9月東旭川村を置く。上ペーパンに福島団体移住する。
1899(明治32)年、北海道旧土人保護法公布。菊田熊之助初めて馬鈴薯澱粉製造に着手する。
1900(明治33)年、旭川村を旭川町と改称。
1902(明治35)年、上灌漑溝完成する。
1903(明治36)年、射的山(現・旭山)に稲荷の祠を祀り稲荷山と呼称した。
1904(明治37)年、屯田兵制度廃止する。5月越中団体10戸、宮城団体数戸移住する。
1907(明治40)年、4月2級町村制施行。
1908(明治41)年、開村記念碑建立する。
1912(大正元)年、国有林字クラロマナイ(現・旭山)、44町歩の払い下げを受ける。
1922(大正11)年、11月石北線旭川~愛別間開通。新旭川駅・東旭川駅・桜岡駅・当麻駅・愛別駅を新設。
1927(昭和2)年、10月新旭川駅~上川駅間を石北西線に線名改称。
1929(昭和4)年、旭川追分~2丁目間に電車開通。
1930(昭和5)年、2丁目~旭山まで電車開通。
1932(昭和7)年、10月新旭川駅~野付牛駅間を石北線と線名改称。石北線全通。
1947(昭和22)年、米原に東旭川村役場出張所が置かれる。
1961(昭和36)年、4月新旭川~網走を石北本線に改称。
1963(昭和38)年、東旭川町と合併し旭川市東旭川となる。
1966(昭和41)年、旭川空港開港、東京便就航。
1967(昭和42)年、旭山動物園開園。小熊秀雄賞創設。
1968(昭和43)年、神楽町合併。第1回小熊秀雄賞授賞式。(毎年実施)
1970(昭和45)年、第1回中原悌二郎賞授賞式。(毎年実施)
1971(昭和46)年、東鷹栖町合併。
1972(昭和47)年、全国初の恒久歩行者天国、平和通買物公園オープン。
1984(昭和59)年、スタルヒン球場オープン。
1993(平成5)年、井上靖記念館開館。大雪クリスタルホール開館。
1994(平成6)年、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館開館。旭川冬まつりのメイン雪像ギネス認定。
1998(平成10)年、三浦綾子記念文学館開館。
1999(平成11)年、雨紛大橋の開通により、旭川環状線全線開通。
2000(平成12)年、4月中核市に指定指定される。道央道の旭川鷹栖IC – 和寒IC開通。旭川北IC供用開始。
2002(平成14)年、永山新川(牛朱別川分水路)供用開始。
2004(平成16)年、7月、8月旭川市旭山動物園の月間入園者数が日本一を記録する。
2005(平成17)年、旭川市科学館を北彩都あさひかわ地区に新築移転。
2006(平成18)年、旭川市旭山動物園の月間入園者数が4ヶ月連続で日本一を記録する。(6~9月)
2010(平成22)年、旭川駅新駅舎完成。部分開業。鉄道高架化。
2011(平成23)年、旭川駅新駅舎完全開業。(昭和37年刊行、東旭川町史参考・旭川市史参考)西山東渓(にしやまとうけい)とは、1899(明治32)年、2月 – 、俳人。
1899(明治32)年、2月東旭川兵村屯田兵軍曹の長男として生まれる。本名は勲。
1913(大正2)年、3月公立旭川小学校高等科卒業。
1919(大正8)年、12月徴兵のため旭川歩兵第二十八連隊入営。
1921(大正10)年、11月除隊後病気で1年療養する。
1923(大正12)年、3月株式会社絲屋銀行本店勤務する。
1927(昭和2)年、10月俳誌「ゆく春」創刊する。室積徂春門に入る。藤田旭山と共に「旭川ゆく春会」を発足する。
1928(昭和3)年、4月旭川信用組合勤務(現・旭川しんきん)。10月父の戦友の娘と結婚する。
1941(昭和16)年、1月俳誌「ゆく春」同人に推薦。4月旭川信用組合専務理事に就任。
1965(昭和40)年、10月黄綬褒章を受ける。
1968(昭和43)年、10月藤田旭山氏、俳誌「俳海」創刊に参加する。
1969(昭和44)年、5月叙勲五等賜双光旭日章受ける。6月句集「年輪」自家版1200部上梓。
1977(昭和52)年、1月俳誌「俳海」百号記念文化賞を受ける。
1978(昭和53)年、句集「渓音」上梓。屯田兵とは、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士と部隊の総称。
1870(明治3)年、11月開拓使が提案し、ついで西郷隆盛が1871(明治4)年、士族による北方警備と開拓を主唱する。その後開拓次官の黒田清隆が1873(明治6) 年11月に太政官に屯田制を建議。太政官は黒田の提案に賛成し、1874(明治7)年屯田兵例則を定め、1875(明治8)年5月札幌郊外の琴似兵村への入地で屯田が開始された。
初期の屯田兵募集は原則として士族が対象だったが、後に士族原則が取り払われ平民も屯田兵に志願できるようになる。
兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年だった。移住後3ヵ月は生兵として、午前訓練・午後開墾を行ったが、その後は訓練・演習は農閑期に行われ、家族にも厳しい規則が強いられていた。
新たな入植は1899(明治32)年上川、士別で終わり、彼らが後備役に入った1904(明治37)年に屯田兵制度は廃止となった。石北本線とは、旭川市の新旭川駅から北見市の北見駅、網走市の網走駅を結ぶ北海道旅客鉄道の鉄道路線。
1932(昭和7)年、に北見峠を越える石北線が全通し、旭川から北見・網走方面を結ぶ最短経路の鉄道が開通した。
昭和五十六年八月十四日  旭川屯田会
この碑文を読み易くするため訳文にしたものを次に掲げる
東旭川開村記念碑
題額 徳を種う  陸軍中将従三位勲一等功ニ級 男爵 上田有沢題額
明治七年国家の屯田兵制度を北海道に布くや府県の壮丁を募り之
を要地に移し、兵を練り辺を守り、地を拓き産に就かしむ。二十五年
募る所、京都四十三戸、埼玉一戸、滋賀十五戸、岐阜十一戸、青森四十六戸、秋
田三十戸、富山二十八戸、香川八十九戸、愛媛九十五戸、大分四十一戸、鹿児島
一戸之を石狩國上川郡旭川原野に置き、屯田兵第三大隊三・四両中
隊となす。第四中隊は東に在り之を上兵村と謂い、第三中隊は西に
在り之を下兵村と称す。実に八月十五日にして是れ東旭川村の濫觴
なり。當時荊棘榛莽羆熊の叫ぶ所狐兎の居る所欝林天日を蔽い末
だ人跡あらず。而して壮丁四百人兵役に服するの暇、家族二千有余人
と拮据黽勉墾闢に従事し遂に能く其の功を成せり。既にして他府
県の移住者年を遂うて多きを加え、今や闔村千八百余戸八千五百余
人一大村落となる。之を往時に比するや豈に啻だに天淵のみならん
や、是固より兵民田を力むるの効と雖も抑も亦國家雍熙の余沢なり、
因って其の功程を略叙すること左の如し。二十五年十月尋常小学
二校を興し、三十年三月合して尋常高等校として之を兵村中央に置
く。費四千百四十七円なり。二十六年五月村社を建て旭川神社と号し
三十年拝殿を増築す。二十七年十一月灌漑溝を鑿つこと二百八間費
二百八十円なり、其の年試みに水稲を種え頗る豊穣を得是に於て衆
争って種う。上兵村は三十四年、下兵村は三十八年皆官准を経て溝渠
を開き、忠別河水を引くこと凡そ七千八百十間費二万六百二十円遂
に田三千余町を得歳に米六万余石を産す。日清の役起るや二十八
年三月屯田兵出征し、進んで東京に至るも未だ幾ならずして和成り
及ち罷めて帰る。二十九年六月旭川町に至る道路を開き尋いて東
川当麻永山の諸村に至る者皆成る。凡そ七万六千五百十間費十万余
円。三十年官本村を永山村に属し牛朱別と称せしむ。民不便として切
に分離を請う九月及ち更に東旭川村と為す。三十三年官東旭川東
川二村組合役場を本村に設置す。三十七年九月屯田兵制度廃せられ
後備屯田兵総べて在郷軍人と為る。日露の釁を開くや本村軍人の
従軍出征者五百人、進んで旅順奉天を攻め又北韓を戍って功あり戦
死三十人負傷百五十人各賞賜あり。三十九年四月ニ級町村制布
き六月始めて村会を開く。是に於て官上下両部落をして各別に其公
有財産を管せしむ。既にして部会各事を議し財を理するは村治を害
し発達を妨ぐるの憂あるを以て、相謀って官に請い部会を廃し耕地
五十町を以て本村基本財産と為し、又修路費二万三千三百二十円学
校新築費七千円を出す。闔村始めて一致協和益々其業を務むるを
得るに至り、遂に相謀って碑を建て開村以来の沿革を勅し併せて戦
捷記念と為し以て後人に言念ぐ。このごろ建設委員来りて余に文を
請う。余為に其の言う所の梗概を書し係くるに銘を以です。日く。
侮を禦ぐに兵を屯し 民を植するに田を墾す
榛蕪巳に芟し 稲梁阡に盈ち
膺懲功は偉にして 稼稽力を専にす
挙村相和し 輯睦愆罔く
治具大いに張る 教道ここに全し
安寧富強 要はこれを勉むるにあり
明治四十一年戊申八月
農学博士 佐藤昌介 撰文
湘香道人 新居 謹書

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