渡船場跡・エドウィン・ダン像・竜神塚・石切山街道碑・おいらん渕

その他旧街道・旧道

平成27年(2015)9月20日(日) 22km 3時間30分(9時スタート) 中之島~豊平川右岸~真駒内川~平岸街道(石切山)~豊平川左岸

 シルバーウイークの前半の土日は天気も悪い予報でどこにもいく予定がないが、今日は雨が降らなそうなので、南区方面に歴史を感じるランニングに出かける。北海道マラソン後、ランニングの練習量も減り、少し太ってきたので、良い練習の機会だ。
 地下鉄で中之島駅まで行き、豊平川の右岸を上流に向かって、真駒内公園を通って、真駒内川を上流に走る。途中、真駒内本町のところに渡船場跡(説明別途)の説明があった。今日は歴史に触れる幸先が良い。真駒内公園を通って真駒内川沿いを走っていくと、エドウィンダンの牧夫の銅像(説明別途)があり、道路を挟んだ向かい側には蛇塚・龍神(説明別途)の祠がある。真駒内川の横の歩道をさらに走っていくと、国道230号線へ伸びる平岸街道・石切山街道への分岐に出る。そこを下っていくと石切山の碑(説明別途)があり、そこから少し走ると石切山駅跡である。その建物の後ろの道路がおそらく定山渓鉄道の鉄路跡だったのだろうと推測しながら走る。
 国道230号線にぶつかり、札幌市内方面に向かう。豊平川の今度は左岸を走ることにする。この川沿いの道は初めてであり、あまり人も走っていない。しばらく走り藻南公園のところに大きな岩があり、そこだけは川沿いの道がなく、気が鬱蒼と茂っていて暗い。ここは花魁淵(説明別途)といって、昔花魁の若い娘が身を投げた淵だそうだ。五輪大橋のところで川沿いの道がなくなったので、国道230号線を通り家まで帰る。

【渡船場跡】
 昭和9年に藻岩橋が架橋されるまでの、渡船場があったところです。大正初期まで現在の藻岩橋のところにあった渡舟場(馬の渡舟場)が洪水で使用不能となったてめ、この地に移設したものです。

【エドウィン・ダン像】
 エドウインダン氏は、明治6年開拓使が米国に求めた家畜を輸送して来日してから引き続き、その命?を受けて北海道農業指導の任に当たり、明治8年以来北海道にあって、七飯牧場、真駒内種牛場、新冠種馬場、札幌牧羊場などを開設してその経営に当たり、家畜の飼育、牧草、甜菜、亜麻などの栽培、土地の改良、畜力農具の使用、畜産物の加工などあらゆる新技術を実地に伝えた。北海道はその基礎の上に栄えたのである。
 明治15年任期満了後も日本に止まり、昭和6年84歳で長逝されるまで我が国の外交、産業、文化の発展のために全生涯を捧げられた。その恩澤は永遠に忘れるべからざるものである。今その偉大なる功績を永遠に伝えんがためにこの像を建立する。昭和39年10月 エドウイン・ダン顕彰会

【竜神塚】
 その縁をたずねると、そもそもの始めは取水口近くにあった蛇塚がもと。この蛇塚の由来は、古くからあったというだけでようとしてわからない。
 明治12年に牧牛場がこの疎水を開削した当時、この辺は鬱蒼たる原始林に覆われ、真駒内川の蛇行点に大きな淵ができており、そのそばに蛇塚があったという。
 明治の後半になって平岸、美園、白石方面に水田が普及して来、この水源を利用する農家十数戸で水利組合を結成して、種畜場の了解を得て用水を利用していた。
 この人々の間に淵の主として竜神信仰があり、雨乞いの風習もあったという。 
 大正4年5月、蛇塚に竜神の碑と祠が建立され、爾来竜神塚として信仰を集め、毎年春の水門開きと秋の水落とし例祭が関係者によって執り行われていた。
 昭和47年真駒内団地の開発の中で駒岡に移され、時の流れとともに祠も傾き、人々に忘れられていたものを元の場所近くに移そうと平成2年7月10日、真駒内川流域に竜神塚を建立する発起人会を発足させ、かつて先輩たちの生命を守り、産業の発展を支えた水の守り神として、皆様方のご賛同のもとに平成2年8月12日新しい祠を建立し、「真駒内竜神塚をお守りする会」を設立。真駒内の年中行事として、平成3年9月1日、「竜神祭」を復活させ現在に至っている。  平成4年8月吉日 真駒内竜神塚をお守りする会

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