わたなべ山(59m)、北海道医療大学駅~太美駅、材木沢神社、材木澤開基百十年乃碑

山登り

令和5年4月15日(土) 距離約14km 2時間1分

久々に土日を休めるので、晴れている土曜日のうちに登山&史跡訪問ランニングに。石狩太美駅に車を停めて、JRで北海道医療大学駅へ。同大学裏のわたなべ山に登ることに。その登山道は同大学の薬草園で木道が老朽化しており、立ち入り禁止だが、かまわずに登るとあっという間に山頂に到着。山頂の展望台からは、医療大学とその向こうの田園風景が広がっていた。
 その山の奥に伊達山という低山があるのだが、歩いていくと仏像があり、道がわからなかったので、山を民家のところを少しお邪魔して降りて、太美の方に向かう。仏像には、「大慈大非」「六道能化」「不顧身命」と刻まれていた。
 太美へは当別の道以外は田園風景であり、トラクターが肥料を散布しているのが多かった。
 しばらく走ると、右手の奥に材木澤神社がありお参りする。そして材木澤開基百拾年乃碑があった。ここは真ん中の碑に両側に碑文がある珍しい形である。

【材木澤開基百拾年乃碑】
 樹木うつ蒼として熊笹繁る此の地に入りて斧鍬を振い大自然にいどみ苦闘言語に絶するも流汗の中で開墾に着手するは 明治十四年瀬戸勘三郎氏が草創なり 年進み明治二十年以降 石川県より平佐三郎氏を初めとし徳島県等より集団にて移住 岡田農場等の設置あるも開墾容易ならず精魂込めた作物も野獣に荒され 更に水害に見まわれ収穫皆無にして止む得ず出稼するも度々なり 開村当時 伐採した木材が堆積され木材が豊富な沢であることから明治二十八年部落名 材木沢と公称する 田の沢は 水田の発祥地としてこの名を称し水田の試作が行われるもその成果あがらず畑作の自給食糧確保が精一杯なり 明治四十年 戸数七十九戸に達せり 大正に入りて全面的に開拓が進み大正二年 当別土功組合により灌がい溝が貫通し大正六年には中央排水の竣工を見るに至り 水稲栽培が盛んになり営農意欲をかきたて 農業基盤の確立を見る 大正八年材木沢より分離して上当別部落が誕生する 全盛時 戸数八十九戸あるも後 漸減する 昭和に入りて幾多の変遷と繰返し苦難の道を克服して平成を迎える 現在戸数120戸 水田面積400町歩を経営する稔り豊かな郷土となる 今や 文化 経済 産業 建設等著しい発展を見 更には農業経営の近代化と 豊かな生活を見る 星霜 誠に 百十年 今日材木沢発展の礎石を築いた先人の達の苦闘の足跡を偲び その偉業を讃え感謝して 之を子々孫々に伝えんとこの碑を建立する
 平成二年九月八日
  材木沢開基百十周年記念事業協賛会 松野栄治 謹書

 材木沢神社を後にし、田園地帯を走り石狩太美の駅まで走る。「なかむら」という店でテールラーメンを食べる。

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