釧路市(三吉神社、嵯峨久像、出世坂)

旅ラン

令和4年(2022)12月22日(木) 釧路市(三吉神社、嵯峨久像、出世坂)約3.5km約40分

釧路出張中、早朝ランニング。釧路駅から幣舞橋を渡り、坂の上の釧路総合振興局の前の三吉神社を訪問し、その後高台の上の釧路水産の父の「嵯峨久」像を訪問し、その後坂を下って出世坂を登って、釧路駅前のホテルに戻った。

【三吉神社】
 明治18年郡役所の大島徳右衛門等が秋田県太平山三吉神社の神霊、大己貴神・少彦名神・三吉大神を奉斎し、後に船魂大神・稲荷大神を合祀し三吉神社と称し昭和3年創立の許可を受ける。昭和3年村社となり、昭和21年宗教法人設立した。昭和38年に鉄筋の社殿を建立し、翌39年に結婚式場を新設した。

【嵯峨久頌徳碑】
 この碑は、漁業功労者 嵯峨 久(1876年-1960年)を顕彰するために、釧路発動機漁船組合により昭和5年(1930年)に釧路市南大通2丁目2番地に建立された頌徳碑である。碑の台座の裏側には『嵯峨久君壽像・・・』ではじまる碑文があり、嵯峨久の経歴、ニシンやマグロ漁における活動、マグロ漁船の大規模な海 難事故に対する思いや、水産界での活動、その人となりが刻まれている。久は水産都市釧路の黎明期に動力船を用いた機船漁業を初めて導入し、民間人でありなが ら現在の釧路副港の前身である嵯峨漁港を整 備するなどし「釧路の水産業の父」とも呼ばれた人物。明治初期の釧路の水産業の混乱した困難な時代を経て、釧路の水産業が拡大し始めた明治末期からの久の人生も苦難の多いものであった。久は秋田藩士の三男として明治9年(1876年) に生まれ、七歳の時に現在の根室市に移住、その後函館で海産商の駐在員となる。三十歳の時、根室市でトロール漁業を試みるも失敗。明治40年(1907年)に来釧、ニシンまき網漁業を導入、小ニシンの最盛期であった釧路では好成績 をあげた。大正3年(1914年)には飯塚城之助 らと漁業組合の貸付資金などを活用し、率先して発動機船をマグロ流網漁業に採用し、釧路に おける機船漁業の先駆けとなった。

【出世坂】
 明治末頃まで、この坂の上に、釧路支庁や測候所があったほかは、人家もほとんどなく「支庁裏の坂」と呼ばれた細い踏み分け道であった。のちに、この坂の寂しい雰囲気と急な勾配から「地獄坂」といわれたり、たまたまこの坂で起きた事件をきっかけに「おサヨの坂」と呼ばれた時代もあった。大正二年、釧路中学校の開校とともに、向学心に燃える若者たちの通う道となり、その青雲の志をたたえ活躍を期待して、誰いうとなくこの坂を、「出世坂」と呼ぶようになった。

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