芽室町美生

石碑等(開拓の歴史)

令和6年(2024)4月21日(日) 芽室駅~(道道62号線)~新生地区~坂の上地区~明友地区~新嵐山の方に右折~(道道55号線)中美生地区~美生地区~(道道317号線)~芽室駅 24.5km 3時間13分

 新嵐山スキー場を横目に見て芽室町市街に戻る道を走る。強烈な向かい風になる。美生集落に来ると巨大な石碑が鎮座していた。

【美生開拓百年記念之碑】
 上記のとおり大きく刻まれ、右下に「芽室町長常山誠書」と刻まれている。裏の碑文には次のとおり概要が刻まれていた。「明治31年富山県人山本庄藏氏が一家七人を以てピウカ川沿い四線2号に入地して開墾に着手したのがはじまり。次いで翌32年、埼玉県人茂木良平・竹次郎両氏が田島榮太郎・山口林次郎・関口弥十郎各氏とともに美生川沿いに入地。33年茂木松太郎・茂木三之・石原惣三郎・麻生由太郎・麻生興太郎の各氏、34年休場長兵衛・所丈四郎の両氏、35年柳澤吉五郎・細野文吾・細野仙太郎・細野平松・武田外吉・萩原幸次郎・早苗富次郎の諸氏が、38年井上善禄氏の率いる北濃団体23戸と坂清三郎氏を中心とする伊勢屋農場の進出もあって川沿いと中間地域にも入植開墾が広がった。出身地は主に埼玉、富山、岐阜、福井、石川である。(中略)昼なお暗く茂る大木と熊笹、野獣の跳梁に任せた原始林で道路もなく開拓資材も乏しく食糧や日用品にも事欠く不自由忍びない開墾、加えて冷害・風害・虫害・水害等が容赦なく襲う。強靭な開拓者魂と不撓不屈の知恵と汗で克服。功労者に深甚なる敬意と謝意を表し、先人の築いた基礎の上に錦上更に華をそえるべく奮起すべき。平成9年11月」

 その日の隣に「故茂木松太郎翁頌徳碑」があった。

【故茂木松太郎翁頌徳碑】
 表面に上記のとおり刻まれ、左下に「北海道知事田中敏文書」と刻まれていた。裏面には略歴が刻まれていた。概要のみ記す。「明治九年四月七日埼玉県児玉郡藤田村大字滝瀬において生まれる。明治三十二年十月本町美生原野に移住。その後、信用購買販売組合設立、同組合長、北海道産業組合連合会監事、専務理事を歴任。昭和21年芽室町農業会長歴任。昭和22年72歳にて他界。」

【第62代横綱大乃国関】の手形・足型

【ふるさと歴史館ねんりん】
 芽室の開拓に携わった人々が、かつて使用していた生活道具や農機具を保存・展示されていた。しかし、芽室町はお金があるのか、立派な建物で、入館料も無料でよかった。

 にじます料理の松久園の入口の向かいが、「第62代横綱大乃国康生誕の地」の標柱があった。

 道道に戻ってしばらく走ると移住記念碑があった。

【北濃団体移住記念碑】
 お墓のような石に、上記のとおり刻まれ、右下に「北海道庁長官土岐嘉平書」と刻まれ、その下に発起人の名前が刻まれていた。裏面には次のとおり概要が刻まれていた。「中島信太郎 後藤実郎 移住地視察 明治37年8月 移住者郷里 岐阜県??下牧村 移住時日 明治38年3月12日以降 64戸団体長 井上善碌 大正13年11月建立」

【故島田為三郎記念塔】
 市街に入り大きなグラウンドのところに上記の石碑があった。この方の経歴が刻まれていた。判然としないがキーワードは次のとおり。「明治31年徳島県坂野村出身 芽室町に移住 初代郵便局長 農会委員 村会議員を歴任 大正十年病を得て札幌市日赤病院で加療 57歳で死亡 高野山に分骨 (以下略)明治33年6月建立」

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