登戸駅~向ヶ丘遊園駅~登戸稲荷社~丸山教~長念寺~二カ領用水~日向山~根岸古墳群~向ケ丘遊園~中野島

古墳・ストーンサークル

平成23年(2011)12月18日(日) 10時半~12時頃

登戸駅~向ヶ丘遊園駅~登戸稲荷社~光明院~丸山教~長念寺~二カ領用水~東生田緑地(日向山)~根岸古墳群~向ケ丘遊園~中野島

 南武線沿いの中野島に水を汲みに行くついでに、小田急線沿線の自然ふれあい歩道の日向山コースを歩いてみた。

【登戸稲荷社】神奈川県川崎市多摩区登戸2297

【丸山教本庁】多摩区登戸1274
 明治19年(1886)、登戸村に丸山教本庁がおかれました。丸山教は、明治3年(1870)登戸村の農民であった伊藤六郎兵衛を教祖として、富士講の一派である丸山講を背景として興った、世直し的性格のつよい新興宗教です。
 幕末から明治維新期には、その政治や社会の変革に伴って全国的に新たな民衆宗教が展開しました。例えば中山みきの「天理教」、黒住宗忠の「黒住教」、あるいは金光大神の「金光教」などです。丸山教もこれらと同様、やはり社会不安の中における民衆救済の教義にたったものでした。
 明治13年(1880)には、二子付近の多摩川河原で信者8000人の大祈祷(きとう)会が催され、同19年には丸山教信者は実に138万人に及んだと言われています。このように飛躍的な発展を遂げた丸山教でしたが、国家的な弾圧などのために明治20年代中頃には、その勢いも急速的に衰え始めました。
そこで一方では、当時の報徳社運動と連携して、勤勉・倹約を強調する信仰へと変化をしていったわけです。現在、丸山教は一時の信者数ほどではありませんが、平和主義を教義にかかげて原水爆禁止運動を信仰の実践として、その活動を続けています。
 さて、丸山教三代管長伊藤六郎兵衛(本名は平質)は、布教活動のかたわら、俳句や郷土研究にも意欲的に取り組み大きな足跡を残しています。葦天と号して、俳句に親しみ「とくさ」に加入、同門には佐藤惣之助らがおりました。特に惣之助との親交は深かったようで、昭和17年急逝した惣之助のために、惣之助の句を刻んだ碑を本院境内の庭先に建立しました。そして、この碑を「師弟の句碑」と呼んでます。
 この他にも、親交のあった北原白秋が作詩した「多摩川音頭」の詩碑なども、本院境内にあります。

【長念寺】神奈川県川崎市多摩区登戸
 長念寺は、江戸時代の建物である本堂、山門、庫裏(くり)(市重要歴史記念物)が整然と配置され、近世寺院の境内環境をよくとどめています。本堂は文政7年(1824)に上棟された建物で、庫裏もほぼ同じ時期に再建され、本堂の落慶供養が行われた弘化5年(1848)には完成していたと思われます。山門は嘉永7年(1854)に上棟されました。

【二力領用水】
 二カ領用水。橋に作った人のレリーフ。
 そもそも二ヶ領用水は1590(天正18)年に多摩川が大洪水を起こして流路を変えたことから、新たに農業用水を引き、水田を開発するために造られました。この用水を用いて栽培された米は3代将軍家光が鷹狩りに来たときに賞味し、以来将軍家の御飯料になりました。のちに稲毛米と呼ばれ、江戸ですし飯として大人気だったそうです。
 二ヶ領の「二」の意味は?
川崎領と稲毛領の「二」つの「領」にまたがって流れたことに由来します。二ヶ領用水と対岸の世田谷領・六郷領を流れる六郷用水を合わせて「四ヶ領用水」と総称することがあります。両用水は同じ小泉次大夫の指揮のもとに、ほぼ3か月交代で交互に工事が進められました。そのため「双子の用水」と呼ばれたりします。

二ヶ領用水はどこからどこまで?
二ヶ領用水は多摩川に2カ所の堰を設けて取水しました。ひとつは上河原堰、もうひとつは宿河原堰です。この二つの堰で取り入れた用水路は、JR南武線久地駅近くで合流し、今の川崎市域のほぼ全域に枝分かれして流れました。
幹線水路の全長は約32kmといわれましたが、現在は多摩川大橋に近い平間浄水場の横までしか残っていません。
 二ヶ領用水はいつできた?
関ヶ原の戦いがあった3年前1597年に測量が始められ、その2年後に開削工事にとりかかりました。完成したのは測量 開始から14年後の1611(慶長16)年です。
現在のJR南武線沿線の地域は、この用水によって農村地帯として発展しました。
 二ヶ領用水を造ったのはだれ?
二ヶ領用水上河原線にかかる台和橋のレリーフや世田谷区の次太夫堀公園に、その名を残しているのが小泉次太夫という人です。徳川家康の家臣で、用水開発を家康に進言して、四ヶ領用水開削の用水奉行に任命されました。この次太夫の指揮の下に、地域の人たちが協力して用水が造られたのです。

【日向山】標高60m
 東生田自然遊歩道の途中にある約4.5haの緑地

【根岸古墳群】川崎市多摩区枡形2丁目
 小田急線向ケ丘遊園駅の西方約700m、多摩川の沖積低地に臨む細長い丘陵の上に、この古墳群があります。標高は約56mで、山林の中を通る小道から見ると、こんもりと盛り上がった5基の古墳を見つけることができます。この古墳群は所在地の字名をとって、根岸古墳群と呼ばれています。
 

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