新琴似歌舞伎跡・屯田防風林・荒井金助墓・早山清太郎墓

旅ラン

平成27年(2015)3月8日(日) 8時頃出発 宮の森~琴似~新琴似~太平~百合が原~拓北~あいの里(北海道教育大前) 約16.7km 約2時間28分(8:54/km)

小春日和に誘われて、マラニックに出かける。今日の目的地は、学園都市線沿いに走り、あいの里教育大学前だ。

 宮の森から琴似・栄町通りを北東に走る。新琴似図書館で借りていた本5冊を返し、3冊をまた借りる。リュックが少し重たいが仕方ない。

 新琴似では、新琴似歌舞伎の跡地を見つける。ここは、「札幌歴史散歩」という本に書いてあり、以前に何度も探索していたのだが、見つけることができなかった。今日は偶然に歩道に見つけたのだ。
 同書から転載。
~開拓当時、新琴似では農民芸能として歌舞伎が演じられた。新琴似歌舞伎が行われたのは明治30年(1897年)頃から大正5年(1916年)までである。初期の担い手は、座長格の田中松次郎を初め、鳥取県からの開拓農民が中心であった。当初、新琴似神社境内で上演していたが、明治43年、札幌警察署長あてに「劇場開設願」を提出し、常設劇場の建設に乗り出した。常設劇場・若松館は現在の北区新琴似7条1丁目にあたり、現在、案内板(写真)が置かれている。収容能力310人、特設舞台、花道、楽屋、警察官席、便所を備えていた。大人10銭、子供5銭の入場料をとり、週に一度上演していた。歌舞伎のほかに義太夫、浄瑠璃なども上演した。また、幌向、岩見沢などに地方巡業も行った。松次郎は昭和37年没。平成5年7月に新琴似歌舞伎伝承会が設立されている。~

 次に屯田防風林の横を走り、創成川を横断、大平・百合が原方面に向かう。百合が原公園の横を過ぎ、北上すると烈々布会館に差し掛かる。会館横に開拓100年記念碑があり、歴史を思いもかけず発見。
 説明版によると、この地は、明治14年(1881年)に福岡県人が報告社を組織して、北海道にわたり開墾した時、明治16年にその一部、5、6個が烈々布に入植したのが始まりで、「烈々布」という地名はアイヌ語に由来しているそうだ。

 次に北上し、篠路の街へ。この辺は北海道らしくなく、道が曲がりくねっている。ネットで調べると、篠路は、江戸時代、松前藩によって家臣の知行地として石狩十三場所のうちの一つシノロ場所として開かれていて、安政5年(1858年)江戸幕吏の荒井金助が農家8戸を伴って入植し、「荒井村」を始まりだそうだ。その2年後に入植し、長く開墾にあたり、篠路村開拓の礎を担った「早山清太郎」が篠路村の開基、その後明治22年から九州・四国・近畿から屯田兵220戸1,056人が篠路の地に入植。当時は苦難の連続で、大火や大水害など相次ぐ災禍により、離脱し明治37年には72戸に激減したそうだ。
 篠路神社にお参りし、その由来を調べると、前述の荒井金助が創祀したそうだ。神社の近くに、札幌の中でも古い街らしく、馬頭観音の碑を見つける。

 次の目的地は、龍雲寺だ。ここも古いお寺らしく、100年以上もの樹齢の銀杏が出迎える。ここに前述の荒井金助と早山清太郎のお墓がある。二人のお墓は仲良く並んでいる。ネットから、二人の功績を転載する。

【荒井金助】
 石狩調役の荒井は、1860年(万延元年)に自費で農民十余戸を募って篠路に入植させ[荒井村]を開村しました。荒井村には凶作に備えて食料を蓄える倉庫を建築したり、教育にも力を尽くしました。荒井が務めた石狩に[石狩役所]が設置されたのは1855年(安政2年)で、行政区域は[積丹]から[増毛]までの広エリアで、この中にはサッポロも支配下に置かれていました。荒井金助が調役に就任したのは1857年(安政4年)で、荒井はこれまでの場所請負制度を改革したため港も活況を呼び石狩の人家も急増したと言われています荒井はその後1863年(文久3年)に石狩から函館に異動を命ぜられ、同66年11月五稜郭の堀に落ちて亡くなりました。享年58歳。

【早山清太郎】
 荒井金助と並んで篠路開拓の祖と呼ばれているのが、早山清太郎です。荒井と同じ龍雲寺の境内に仲良く隣り合わせでお墓が建立されています。早山清太郎は1817年(文化14年)現在の福島県白川郡西郷村に生まれ、1852年(嘉永5年)蝦夷地に渡ってきました。当初は現在の手稲星置で伐木下請けの仕事をしていましたが、幕史の薦めもあつて農夫に転向し琴似に移住しましたがその後1860年(万延元年)篠路に入植しました。
 荒井金助によって開拓された荒井村はその後徳川幕府の崩壊、明治政府の樹立、箱館戦争の勃発などで、全村あげて開拓を放棄して戦争に参加した。そのため開村14年にして一応廃村となつた。しかし、その中で毅然として開拓の鍬を振ったのは早山清太郎で、1871年(明治4年)南部藩士10戸が伏籠川の川沿いに永住したのでその他の移住民を合体して早山が名主となつた。彼はこの地で生涯を終えた。まさに、早山清太郎は、文字通り篠路村の基礎を築いた先人といえましょう。
 当時の篠路地区は原野でしたが早山が遺した数々の功績の中でも、道路の開拓はその後の地区の発展に大きく寄与しています。早山の手がけた20本余の道路建設の功績は、彼の法号である[篠路院仁誉寿山徳翁万開道居士]にも如実に示されており遺徳は後世に留められています

(転載終了)
 北海道開拓の先人のお墓にお参り後、拓北を経由して、あいの里教育大前まで走り、そこからJRで八軒まで帰る。   

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