七飯町(大沼湖畔(大岩)~(時計回り)~大沼駅~大沼隧道入口~(国道5号線)~蓴菜沼~グリーンピア大沼)
平成31年(2019)4月29日(月祝) 18.6km 2時間15分
家族と森町の実家に帰省中で大沼の大岩にある神社に参拝後走ることに。大沼湖畔を時計回りに周回し、大沼駅(旧軍川駅)を経由して、大沼トンネル方面に向かう。今日はゴールデンウイークでトラックが少なく、一般の車が多くて渋滞しているので安全と思ったからだ。しかし、トンネルまでの道道は車が少なく歩道がなく結構危険。しかし、国道5号に来ると案の定渋滞だ。渋滞で停止している車を横目に北部方面に走る。
坂を上り切ると蓴菜沼に到着した。昔と異なり明治天皇の小休所の説明板とイザベラバードの説明板がある。
【転載はじめ】明治天皇蓴菜沼小休所
明治5年(1872年)、無沢峠が開削されて蓴菜沼湖畔を通る札幌本堂が完成すると、七飯村に入植していた八王子千人同心の一人、宮崎十兵衛がこの地に旅館を建てた。名勝地として知られるようになると、他に萍水館などができ、皇族や外国人の来遊で賑わいを見せていた。
宮崎旅館は、明治14年(1881)9月6日、明治天皇のホッカイドウ巡幸の際に小休所に当てられ、重兵衛は沼のコイやジュンサイを天覧に供した。
明治36年(1903)に鉄道の開通とともに観光局の入り込みは大沼に移り、今や往時を偲ばせるものはイチイの大樹と湖畔に御前水の泉だけである。
平成4年10月 七飯町教育委員会
【転載終了】
【転載はじめ】イザベラバード
1878年(明治11年)8月17日、函館を出発したイザベラ・バードは、札幌本堂を北上しながら七飯村・峠下村を経て、その日の夕方に蓴菜沼に到着しました。ここには当時、開拓使高官がよく使用した「宮崎旅館」があり、バードもここに滞在したと考えられます。旅館から眺める色に満ちた世界と自然が奏でる音に囲まれ旅の疲れを癒したことが、バードの著書「日本奥地紀行」にも綴られています。
~明治初期 蓴菜沼(小沼)の景~「日本奥地紀行」より
私はさびしい湖の上にほとんど突き出して造られた家の二階から外に身体を出して座っている。湖は沈んでゆく夕日の中で森の茂った岬を紫色にし、静かな影の色を深めている。多くの男たちが近くの山腹から、槍で倒したばかりの熊の死骸を引きずり下ろしている。村というものはなく、忙しそうな蝉の鳴き声や森を通る風の音だけが、この静かな夕日の空中に漂っている音のすべてである。夕日の色は桃色と緑色である。彩られた水面には睡蓮が青白い花のガクを横たえている。森の茂った山々の上に、駒ヶ岳火山の鋭くぎざぎざの、ほとんど裸の山頂が夕日に赤く映えている。この夕方の少なからぬ魅力は、・・・まったく私一人でいることである。
【転載終了】
そのあと、国道5号線を走ると、蓴菜沼湖畔に鳥居が見えてきた。普段車で走ると気が付かない。鳥居の奥、人家の横を行くと、半島状の路の奥に小島があり、小さな社があった。拝んでからまた、走り始める。
また、しばらく走ると、左手に「西大沼小学校跡」の碑があった。ここの小学校は子供時代には見ていた風景なので懐かしい。
【転載はじめ】
西大沼小学校跡 明治32年(1899)11月~平成18年(2006)3月
西大沼小学校は、元々、宿野辺分教場だったが、通学に不便をきたすという理由により、七飯・森両方の協議により、明治32年11月1日に峠下小学校蓴菜沼分教場として開設された。明治34年には蓴菜沼尋常小学校に昇格している。昭和32年に七飯村が町制となってから字名の変更により、西大沼小学校と改称した。児童数は多いときで50名にもなったが、近年では10名を下回ることが多くなったため、地域の活動の中核を担う施設として活躍した本校は、惜しまれながらも平成18年3月に106年にわたる歴史に幕を閉じた。
平成20年3月 七飯町教育委員会
【転載終了】
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