材木座光明寺・披露山・旗立山・森戸神社・大峰山

山登り

平成24年(2012)2月5日(日) 9:30鎌倉~11:30葉山 披露山93m・大峰山143m

 昨日、日本酒をしこたま飲んでしまい、今日は寝坊。このため、近場をランニングすることに。三浦半島の中で行っていない小坪から披露山、大峰山に。
 大町四つ角付近の製麺所。レトロだ。辻の薬師。

 亀時間という喫茶店。九品寺。新田義貞が亡くなった北条氏を弔うために建立。

 材木座の光明寺。でかい寺だ。浄土宗の関東の総本山だそうだ。
【光明寺】ネットより
 天照山蓮華院光明寺といい、浄土宗の大本山です。創立は鎌倉時代の寛元元年で西暦1243年といわれています。寺を開かれたのは浄土宗三祖然阿良忠上人です。宗祖は法然上人で、二祖は久留米の善導寺を開かれたお弟子の聖光上人という方です。良忠上人は石見国(島根県)に生まれ、深い学問を達成された後、三十八歳で聖光上人のお弟子となり、法然上人の教えを受け継がれて浄土宗の三祖になられました。また良忠上人は、浄土宗に関する多くの書物をのこされ、弘安十年(1287)七月六日、八十九歳の高齢をもって入寂されました。その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜りました。良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれています。その後も第五代の執権、北条時頼公をはじめ歴代執権の帰依をうけ、七堂伽藍を整え、関東における念仏道場の中心となり、後土御門天皇より『関東総本山』の称号を受け、国と国民の平安を祈る『勅願所』となりました。江戸時代になると、徳川家康公は当山を関東十八檀林の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場となりました。檀林とは徳川幕府が定めた学問所です。

 小坪の高台から逗子マリーナを望む。頂上はマンションになっている。ここが住吉城なのだろうか、しかし、抜けたところは神明社で、住吉神社ではなく、目指していた住吉城跡(住吉神社ではなかった)

 次に目指したのは、披露山庭園住宅街。敷地が広い、外車ばかり。ネットによると反町隆史&松嶋奈々子夫妻、みのもんた、小田和正、松任谷由実、石原良純らが住んでいるとのこと。

 次に披露山公園。案外景色がよい。猿が飼われている。ここから逗子海岸へ抜ける山道があった。 

【旗立山】
  葉山町指定文化財「旗立山」です。鐙摺山(あぶずりやま)とも呼びます。源頼朝挙兵の際、頼朝に加勢した三浦義澄がこの山に旗を立てて気勢をあげたことから「旗立山」の名が付きました。ここには鐙摺城というお城もありました。鐙摺の名は、源頼朝がこの城を訪れた際、道が狭くて馬の鐙(あぶみ)を摺(す)ったことに由来しているそうです。 源頼朝暗殺を企図して失敗し、ここで自害したという伊東祐親の供養塚もある。

 森戸海岸にはレトロな建物が結構ある。 

【森戸神社】
 今から約840年前の永暦元年(1160年)、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は、三嶋明神(現在の静岡県・三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願しました。
治承4年(1180年)、そのご加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝公は、鎌倉に拠るとすぐさま信仰する三嶋明神の御分霊を、鎌倉に近いこの葉山の聖地に歓請し、長く謝恩の誠をささげたと伝えられています。「吾妻鏡」によれば、歴代将軍自らこの地を訪れ、流鏑馬、笠懸、相撲などの武時を行ったといいます。また、災厄が生じると加持祈祷が行われ、*七瀬祓の霊所としても重要な地であったとされています。源氏はもとより鎌倉要人に崇敬され、特に三浦党の祈願所でもありました。また、北条、足利諸氏の崇敬も篤く、天正19年(1591年)には徳川家康公より社領七石が寄進されました。
延宝2年(1674年)に徳川光圀公、明治25年(1892年)には英照皇太后陛下のご参拝を仰ぎました。現在も葉山の総鎮守として、町内はもとより近郷近在より多くの参拝者が訪れています。

【大峰山】
 頂上からは樹木が邪魔をしてよく見えないが、葉山御用邸、小坪、鎌倉方面。遠くには大山が見えた。

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