豊平山・焼山・本願寺街道説明板

その他旧街道・旧道

豊平山・焼山(663m) 平成26年(2014)10月19日(日)単独
1019 バス停(簾舞団地)
1025 登山口
1055 頂上
1105 下山開始
1136 登山口
1205 バス停
 本日は家族サービスもなく、快晴なので近郊の未踏の低山を極めることに。定山渓から札幌に向かうと藤野Fu’Sスキー場の後ろにそびえる豊平山(焼山)をめざすことに。ネットで見ると夏道も開けているようだ。
 札幌市南区のホームページに焼山を含む藤野三山の由来があったので転載する。

 【転載はじめ】

戦後、生活も落ちついてきた昭和26年(1951)ごろ、下藤野(しもふじの)青年会 <会長 菅信雄(すが・のぶお)氏> を中心に開発の機運がたかまり、焼山(やきやま)登山コースの開発にのり出した。当時焼山の麓に「郵便局修練道場」があり、ここを登山口にして頂上まで約30分のコースを開削した。さらに夢がふくらみ道場横に農業貯水池を兼ねた池にボートを浮かべ、岸辺に千本桜の名所を造成、さらに焼山の頂上と眺望のすばらしい牧場の山をロープウェーで結び、一大レクリエーション構想を計画した。
 無名の三山にはそれぞれ山名を工夫した。
 下藤野山(スキー場の山)には「豊栄山(ほうえいざん)」。焼山<砕石(さいせき)の山>「豊平山(ほうへいざん)」。牧場の山(ゴルフ場の山)には「豊見山(とよみやま)」。として「藤野三豊山(ふじのさんぽうざん)」を命名したのは小林裕明(こばやし・ひろあき)氏だった。池の試掘など青年会を中心に地元人たち30人が参加し、期待に胸躍らせながらスコップ、ツルハシを振るった。しかし結果は決壊のおそれありと計画は実現されずに終わった。
 こうして若者たちが郷土づくりに夢をかけた時代が今はなつかしい。
 当時協力者で「藤野三豊山」の命名者だった小林氏は「郷土づくりに燃える若い人達と一緒に活動することは大変素晴らしく楽しい事だった。」と語った。
こうした若者達の郷土にかけた情熱の時代を三豊山の山々はじっと見守ってきたことであろう。
(転載終了)

 地下鉄で真駒内まで行き、定山渓行きのバスで簾舞団地前で降りる。簾舞中学校前で左折し山の方に向かう。途中、果樹園や畑、田んぼもあり結構な田園地帯だ。しかし3kmほども走っても登山口に着かない。途中、鳥居があって神社がと思ったが石碑で、「大金神」とある。このような石碑は初めてだ。その後、人家もまばらになり心配していると登山口に到着。一人降りてきたので聞いてみると、この山は傾斜が厳しいが、頂上は素晴らしい景色が広がっているという。早速登山道に入ると、最初は沢沿いで水でぬかるんでいるが、すぐにそれは終わり、黄金色の紅葉と落ち葉の中を登っていく。10分も進むと傾斜が急になってきて、ロープも出てきた。高度を上げるとさらに傾斜が急になり、落石の恐れがあるので、石が落ちてきたら木に隠れなさいと書いてある。ロープにあまり頼ってもいけないのだが、ロープにつかまること15分、計30分であっという間に頂上。頂上にはご夫婦のパーティ一組と、単独のおじさん計3名がいた。頂上からは雲一つない空の下で絶景である。札幌市街はもちろん、遠くには雪をかぶった夕張岳、南には恵庭岳、樽前山。近くには、空沼岳、札幌岳、神威岳、烏帽子山、定山渓天狗岳、無意根山、八剣山が見える。
 少し絶景を楽しんだ後、下山開始。下山してわかったのだが、藤野方面にも登山道がある。今度、ここを登ってみよう。
 帰りはあっという間に国道230線。そこで、本願寺街道の説明版を見つける。本願寺街道はこの辺は国道230号線ではなく、昔は少し東寄りを迂回しながらあったのだ。
 そこから、山沿いの砂利道は旧本願寺道路、簾舞団地であっという間に終わってしまったが、歴史を感じることができた。

【説明版を転載】
 簾舞二星岱麓の南側及び旧「山の上」(現:簾舞団地)と称したところに札幌の黎明期僧侶たち一行が困苦欠乏に窮しながらも、敢然と未開の大原始林んい挑んで、一条の道筋を開削した「本願寺道路」(別名:有珠新道)の跡がある。
 安政年間、虻田から洞爺湖を経て札幌に入り、「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便利かはいかばかりならん」とその必要性を説いたのは幕末の探検家・松浦武四郎だった。
 明治時代、新政府にとって北海道の開拓は急務で、特に太平洋側と札幌本府を結ぶ道路は必要不可欠であった。同2年、東本願寺は「新道切開」「移民奨励」「教化普及」お目的により、政府に北海道開拓の許可を得て、翌3年若干19歳の法嗣現如上人が中心となり、新道の開削を始めた。特に札幌と函館を結ぶ重要道路として工事に最も力を入れたのは、尾去別(伊達市)から札幌平岸まで道幅3m、全長26里(約104km)の事業で山間渓谷難所続きも1年3か月の突貫工事により、4年10月に完成させた。それは現在の国道230号線の原型となったもので、当時の姿の一部を簾舞で忍ぶことができる。
 また、明治5年1月開拓使は、この道を利用する旅人へ宿泊休憩などの便宜を図るために「通行屋」を開設、屋守の黒岩五郎一家が、この地の最初の定住者となり、簾舞開拓の原点となった。
 この街道が、後世、地域発展に大きく貢献したことは言うまでもない。往時を知る貴重な史跡である。

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