白糠町の史跡

城郭・チャシ

白糠町(白糠駅~サシウシチャシ~厳島神社~望洋の碑~シリエトチャシ~坂の丘チャシ~白糠運上屋跡)

 令和元年(2019)10月14日(月祝) 15.7km 2時間27分
 
 この三連休は日曜日に仕事があったが台風で中止になり、三連休はなにもなくなった。このため、土日は結局走るか、プールで泳ぐで終わってしまった。本日、月曜日体育の日は台風一過で好天が期待されるので、白糠町の史跡を訪問することにする。
 朝5時半に根室を出て、9時頃に白糠駅に車を停めて国道38号線を東に走り始める。「北の遺跡」によると石炭岬チャシがあるはずだがよくわからない。線路の向こうに石碑があるが、帰って確認すると「北海道石炭・・」と書いてあり、チャシ跡かどうかわからない。次に刺牛地区に入ってくる。「北の遺跡」によるとこの海岸に「原半左衛門縁の地遺跡」があるはずだが、これもよくわからない。そして、しばらく走ると「刺牛砦址」碑、サシウシチャシ跡が線路の向こうに見えてきた。柵があって向こうに行けないが、一応チャシ跡訪問になるだろう。そこからしばらく走るとサーフィンをやっている海岸に着いた。今日はウエットスーツ等を持ってきていないので、海に入ることはできない。残念。
 そこから引き返して、白糠市街に向かう。市街の手前で内陸に入る道があり、そこから岬の森東山公園に行こうとしたがいけなかった。引き返して走ると、厳島神社にたどり着いた。鳥居のところに「原半左衛門縁の地碑」があった。裏面を転載すると次のとおり。

「史跡 今を距る184年前即ち寛政11年徳川幕府は国防的見地から上地したが八王子同心頭原半左衛門胤敦手附65名引きつれ本町に移住 農耕のかたわら警備にあたる 往時この附近が荒地であった 昭和59年10月建立」

 厳島神社は線路を渡って階段を登るとたどり着いた。たいそう立派な社殿である。お参り後、岬の森東山公園を登っていくと、「アイヌ弔魂碑」があり、その後ろにイナウがあった。石碑の裏面は見づらいが、要約すると「白糠はアイヌ語のシラリカ 潮みちる処の意味で、北海道の中でも自然の恵み豊かなアイヌの集落が早くから発達してきた。白糠の源はアイヌの民族の力でつくられたものであり、白糠の開祖として貢献されたアイヌ民族の偉業を偲び、この地に骨を埋めた先人アイヌを顕彰するため、全町民の総意をもってこの碑を建立する。」
 また、この地は市街を望む高台にあり、ここがおそらく「シリエトチャシ」だろうと推察する。そこから舗装道路を登っていくと、望洋の碑があった。当初はチャシかと思ったが違うようである。しかし、展望は良い。
 この公園をあとにし、西に向かい茶路川を渡って、坂の丘公苑墓地に入り、その奥の坂の丘チャシに向かう。岬の突端に企業の建物の廃屋があった。ネットで調べると東京牧場㈱北海道第一農場跡だそうだが、おそらくここの裏がチャシ跡だろうと推察して、市街地に戻る。
 最後に訪問するのは、公民館のところの「白糠運上屋跡」の碑があった。転載する。

「江戸時代初期 松前藩は場所制度を創設し 各地に商場(あきないば)を設け、後にこれを商人(場所請負人)に請負させ運上屋の設置を義務付けた。
 運上屋は、場所の行政的、経済的施設として、拠点となる位置におかれ、番屋、旅宿所、産物蔵、馬屋等が整備され、交易等を通じ現地住民の生活に寄与するところが非常に大きかった。白糠運上屋もそのひとつで、初めはパシュクル西方のモセウシ(現在の音別町)に在ったが、浪が高く船掛かりの不便から、のちにこの附近に移設された。」

 ラッキーなことに、運上屋跡碑の近くに、「白糠町開基戸長役場跡」があった。転載する。

「明治17年この地に白糠戸長役場が設置され、当時白糠村庶路村尺別村足寄村利別村螺湾村陸別村の七ヶ村を管轄し広域行政の中心であった。以後多くの変遷を辿って現在に至っているが、いま道東地方における産業文化交通の枢要な地として今後益々重要度を加え発展の可能性は無限である。町制20年を記念して郷土を知るためこの碑を建つ。」

今日のランニングも史跡でおなかいっぱいであった。

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