平成29年(2017)8月11日(金・祝) (約15km 2時間)
森町に帰省中、鷲ノ木の榎本武揚軍の上陸の地から実家に走ってみることにした。ここは以前にも来たことがあるのだが、ちゃんと見たことがなかったので、今回はじっくり見物することにする。
【旧幕府軍鷲ノ木上陸の地】
明治元年(1868年)旧十月二十日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は積雪三十cm、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪であったと考えられる。
榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか七艦(回天、蟠龍、長鯨、神速、鳳凰、回春、大江)で、このことの人員は榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐及左衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。二十一日、人見勝太郎以下三十二名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ち構えていた官軍と撃戦となり、箱舘戦争へと展開していくことになります。
開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、明治二年五月の箱舘戦争終結まで負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者が眠っており、史跡公園ないには上陸記念碑や慰霊碑
があります。 平成二十四年三月 森町
次に旧街道を通って森町の中心街へ。途中JR貨物の向こうに雲に覆われた駒ヶ岳、海、そして森の市街が見えきれいだった。森駅を過ぎるとすぐに、旧森桟橋跡があった。昔は案内板も何もなかったが、現在は丁寧に設置されている。そして、発見だったのが、イザベラバードの案内板もあったことだ。
【史跡 森桟橋跡】
明治5年、函館~森・・・室蘭~札幌間(札幌本道)の新道建設工事が開始され、翌6年には全長255メートルの森桟橋(波止場)が完成しました。脚材には、栗の木(茅部栗)が多く使われ、また当時鷲ノ木村で湧出していた石油を橋脚の防腐剤として使用しました(総工費約2万円)。
完成とともに定期便(汽船稲川丸)が運行され、当時の森村は旅人等の往来で大変賑わいました。
明治14年(9月)、明治天皇本道御巡幸時にはこの桟橋より上陸されました。
明治26年、函館~室蘭間の定期航路が開始され、一時廃止となりますが、同41年民間会社によって運行が再開されました。しかし、昭和3年に長輪線の鉄道(長万部~輪西間)が開通したため船の利用者が減り、ついに再開後20年を経たところで廃止となりました。
現在跡地には、朽ち果てた橋脚材が数十本と「明治天皇御上陸記念碑」が残っています。
隣には、イザベラバードの案内板があった。
【イザベラバード】
1878年(明治11年)8月12日にイザベラバードは、函館を出発し、七飯村、峠下村、じゅん菜沼を経て、森村に入りました。当時の森村は森から室蘭間に定期航路が開かれ、旅人で大変活気に溢れていました。森村の旅館で一泊し、翌日「森桟橋」から室蘭港へ向けて噴火(内浦)湾を横断し、一路、アイヌの人たちが暮らす平取集落を目指しました。
~明治初期の森村の風景~「日本奥地紀行」より
私はこの宿屋が気に入っている。ここからは火山がたいそう良く眺められる。火山はこの湾の一つの岬となっている。森には全長345フィートの未完成の桟橋があるが、投錨地はない。湾口を横断する蒸気連絡船はここから出る。
「汽船だよう」という大きな叫び声が、船はすぐ出るよという、知らせとともに、隣室で朝から碁を打っている人たちにも、誰にも彼にも響いてきた。私たちは焼け付くような日照りの中桟橋に急いだ。
イザベラ・バード(Isabella L.Biad:1831-1904)英国生まれ 当時47歳
イザベラ・バードは、1878年に北海道を初めて女性一人で旅した英国人旅行家。彼女はその類稀な旅行記「日本奥地紀行」(Unbeaten Tracks in Japan ,1885)によってまだほとんど知られていなかった北海道と東北を世界に紹介しました。特に日本の少数民族として古くからの文化と伝統を守り、外国にも分け隔てない思いやりをしめしたアイヌ民族を高く評価しました。
「イザベラ・バードの道を辿る会」では、この優れた女性旅行家による函館から平取までの足跡をだどって、彼女の歩いた道を新たにフットパスとして再発見し、多くの人たちに歩いてもらいたいと考えています。
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