白老町散策(白老町体育館、アイヌ碑、仙台藩白老陣屋、白老チャシ、ウポポイ)
令和3年(2021)2月13日(土)10.0km 1時間33分
本日は天気も良く、吉方である南方の白老町を散策することに。また、話題となっているウポポイを訪問することに。この地は、10年以上前に家族とポロト湖にキャンプに来たことがあり、その時陣屋まで走ったことがあるが、本格的な調査ランは初めてである。
白老町体育館に車を停めて、国道36号線の方に向かうとすぐに広場があり、碑が二つ見えてきた。この地は白老アイヌ民族記念広場というそうだ。
【アイヌ碑文】白老町高砂町二丁目
その昔、私たちアイヌの先祖は、悠久の歴史をこの北海道シラウオイ(白老)の大地に刻んできた。
そして自然への畏敬と恵に感謝し、アイヌの生命を自然にゆだね、独自の精神文化や世界観などを育んできた。
しかし、明治期以降の開拓の進展や同化対策などに伴い、生活環境は大きく変化し、生活の不安と苦渋は筆舌に尽くし難いものがあったが、私たちの先祖は、風俗習慣をことにしながら和人に多くの支援と利便を供与し、アイヌ民族としての復権を図るべく力を尽くした。
この地は、アイヌの子弟が教育を受けた白老第二小学校があった地であり、また、古丹のシュバイツァーとして地域住民に献身的な医療活動をささげられた故高橋房次先生の病院跡地であり、アイヌ民族にとってゆかりの地でもある。
ここに先祖の遺志に報い、今日の白老の繁栄と基盤をつくり上げた先人アイヌの幾多の労苦と偉業を讃え、関係者の篤志によって、この碑を建立する。
2005年8月10日 白老アイヌ碑建立実行委員会
その隣に鳥のフンだらけの胸像があった。先ほどのアイヌ碑に書いてあった高橋房次先生の碑だろう。
【高橋房次先生の碑】
高橋房次は明治15年栃木県下都賀郡間々田町に生れ明治36年東京慈恵医学専門学校を卒業 大正11年庁立白老土人病院長として赴任しアイヌ人の医療は勿論一般村民の衛生思想の普及啓もうに専念し爾来全町民に対し貧富の別なく医療費等を度外視し精魂の限りをつくした先生の医療態度は万人敬慕の的である之れ故に昭和30年9月白老町名誉町民第一号に推された ここに50余年間真に医療報国に徹した先生の功績と恩義に酬ゆるべく北海道文化賞を受賞された本日文化の日を期し町民挙ってこの胸像を建立し先生の偉業を永久に記念するものである
昭和34年11月3日 高橋房次先生功績顕彰会
この広場を後にした後、海岸の白老下水処理場の近くにある白老会所跡を探したがわからなかった。その後、白老川沿いに北上し、白老仙台藩陣屋跡への道を右折すると同陣屋後に到着した。この陣屋は幕末に白老以東の日高、十勝、釧路、根室、国後、択捉まで警固を任された仙台藩の元陣屋で、当初は幕府から勇払への陣屋築城を命ぜられたが、湿地帯であり、また函館から多いためこの白老の地に決めたということだ。しかも、天守閣はないが、両サイドを川に囲まれ、外堀・内堀があるお城に近い陣屋であったそうだ。
【史跡 白老仙台藩陣屋跡】
この陣屋跡は、安政3年(1856)蝦夷地の防備を固めるため、仙台藩が築いたものである
安政元年(1854)徳川幕府は鎖国を解いてアメリカ・ロシアと和親条約を結び、函館港などを交易場とした
このため幕府は、蝦夷地を直轄とし、翌年仙台藩をはじめ津軽・秋田・南部の奥州諸藩と松前藩に警備を命じた(安政6年 庄内藩と会津藩も加わる)
仙台藩の守備範囲は、白老から襟裳岬を越えて国後、、択捉までの東蝦夷地であったため、元陣屋を広尾、厚岸・根室・国後・択捉に出張(ではり)陣屋を築いた
元陣屋の面積は、6.6ヘクタールで壕と土塁を円形・弧状に巡らして内曲輪と外曲輪を構成している ここには本陣・勘定書・穀藏・兵具蔵・長屋などがあり、少し離れた東西の丘陵に塩釜神社と愛宕神社を祭った
元陣屋には、200名ほどの人々が駐屯して警備に当たったが、明治元年(1868)戊辰戦争の勃発によって撤収するまでの12年間慣れない土地での仙台藩士たちの苦闘が、この陣屋あとに刻まれている
白老陣屋には、入口に高い土塁、外曲輪、内曲輪という壕の内側に長屋などの柱の基盤が再現されている。
今日の目的地の一つは、白老チャシである。
家系城郭研究所さんによると、陣屋の外曲輪の西側の小高い丘陵上の塩釜神社が、白老チャシだという。陣屋からその方向を見ると、小高い丘があり、頂上に神社が建立されていた。急な階段で一部凍っており、登るのに難儀したが、何とか登頂。参拝し周囲を散策したが、濠等の痕跡はない。しかし、宇田川洋先生の「アイヌ伝承と砦」には、記載があったので、転載させていただく。
http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/siro/chasi/html/siraoi.htm へのリンク
【白老チャシ】
・城 跡 名:白老チャシ
・所 在 地:白老町字白老769の56
マップコート:545 221 521*13 ・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形 態:丘先式
・主な遺構:
・大きさ標高:標高100m、比高90m
・説明板:なし
・伝説:(白老町白老山城チャシ)
現代の白老アイヌは今の熊坂エカシより11代前の、祖先イペニックルが日高アッペツより移住したのが始まると言い伝えられている。移住の動機は部落と部落の闘争に負け、敗軍の酋長は少数の部下を連れひとまず白老に落ち着き、要害の地を選び追撃軍に備えた(今の仙台陣屋の後ろに当たり、ウトカンベツ川の奥の丘の上、今なお白老チャシコツとして旧蹟がある)。この戦いに負け、酋長を失った敗残の部下は一方の血路を開いて逃げ、数十日後同じく白老付近にきた、すでに先着の一軍が要害によって警戒していると聞き、これを占領して自分らの陣地とする目的で攻めた。戦争半ばで互いに射合う矢の印によって味方同士であることが分かり、合体して一団となり、準備をして敵を待ったが来ない。そのまま今の仙台陣屋の前の第一土塁の付近プンガダイウシ(ハシドイの繁茂している所の意)に土着した。ウトカンベツの名が生じたのはこの戦からで、川を挟んで射合ったので、ウトカン・ベツ 弓を射合う川)と呼ぶようになった。(内地風に言えば戦川とか射合川といううのである。
白老チャシコツ・・・熊坂のイペニックルが、最初白老じ落ち付き、酋長として居を定めた所が、白老チャシコツで、ウトカンベツの上流仙台陣屋の奥の山の上に今でも残っている。(初出:満岡伸一 2003)
※出展:「家系城郭研究所」http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/index.htm
出展:「アイヌ伝承と砦」(宇田川洋)
仙台藩陣屋のあと、2㎞ほど走ってウポポイを訪問する。走って訪問するのは自分だけだろうと考えながら到着。ポロト湖畔に近代的な建物が建っており、やたらと警備員と説明するコンシェルジュがいる。ランニング経費倒れにならないのだろうかと心配する。
アイヌに関する文化などを網羅している努力はすごいものだと思うが、少し建物が近代的に感じてしまったのは自分だけだろうか。まあ、何よりもチセを復元したのは賞賛に値する。
白老市街を後にして、ラーメンを食べて札幌に帰る。
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