小市慰霊碑、湯地定堅の墓、梶原平馬の墓

説明板

令和元年(2019)6月15日(日)

小市慰霊碑、湯地定堅の墓、梶原平馬の墓
(根室市墓地(西浜町))

 根室市の文化財の一つとして、根室市墓地にある上記3人の墓、慰霊碑があるのだが、墓地なので行きそびれていた。今日は特に用事がないので、歩いて訪問することに。墓地入り口から案内板もあり、迷うことなくたどり着いた。
 ここには、上記3名の墓以外にも、「会津・・・」と書いているような小さな墓碑があり、歴史を感じた。

【案内板】
・小市慰霊碑①
 小市は大黒屋高太夫と漂流生活を送り、1792年にロシア発の遣日使節アダム・ラクスマン一行がエカテリーナ号で根室に来航した際に大黒屋高太夫、磯吉とともに念願の帰国を果たしたが、故郷である伊勢白子(三重県鈴鹿市)の土を踏むことなく、翌年春に根室で病死した。
 このときも、松前藩士の鈴木熊蔵、エカテリーナ号乗組員のセミョーン・マホーチンも根室で死亡しており、ラクスマン根室来航から200年に当たる1992年に市民有志により慰霊碑が建立された。

・湯地定堅の墓②
 湯地定堅は1882(明治15)年~1886(明治19年)年に根室県令であった湯地定基の五男であり、生後4か月で他界した。この墓石は六角形をしている点が特徴的であり、石材は神奈川県産の小松石が使用されているという。遺骨は1957年に遺族によって持ち帰られたが、墓石は残され、1993年に市民有志によりここに移された。

・梶原平馬の墓③
 梶原平馬は会津藩最後の家老であり、戊辰戦争や会津藩の再興に尽力した。その後、梶原景雄と名乗り、1881(明治14年)年に妻である水野貞の花咲学校への赴任に伴い根室に移住し、根室県庁に就職したが、1889(明治22年)年に病死した。この墓は1988年に発見され「鳳樹院泰庵霊明居士」の戒名が刻まれている。

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