芽室神社近くの史跡

石碑等(開拓記念碑)

令和5年(2023)10月7日(土)

芽室町温水プールでのトレーニングの後、近くの芽室神社近辺を散策した。ここは石碑や胸像がたくさんある。

【理想郷建設に向って】・・・表面の「理想郷建設に向って」の下には「北海道知事町村金五書」と刻まれ、裏面には次のとおり刻まれている。「芽室町開拓八十年記念の塔 明るい芽室 平和な芽室 住み良い芽室 これを築き上げるために 明治以来八十年の永い歳月が流れている この歳月の陰には つねに風雪に耐え苦難を忍びながら 原始の森を拓き 幾多先人があることを忘れることができない 多くの先達は人の輪と郷土の発展に心を砕き 町づくりに数々の業績を残してきた この偉大なる努力と勇気に深い敬意と感謝を捧げる(略)昭和四十一年九月(以下町長名等が刻まれている)」「芽室町発展の歩み」以下、要点のみを示す。(明治時代)晩正社員 鈴木銃太郎 渡辺勝 高橋利八らが十九年の春に西士狩に開拓の鍬をおろす。二十五年大津から帯広、芽室までの道路開通。三十九年に愛知、石川、岐阜の各団体が設置。三十三年には清水、新得を含めた戸長役場を芽室に設置。(大正時代)奥地原野の開発進む。八年市街に電灯。九年芽室帯広間に電信電話通ずる。十年御影村が分村。(昭和時代前期)六、七年大凶作。十七年町制。(昭和時代中期)三十三年道立農業試験場と国立畑作部設置。・・・「禍転為福」幾多の大災害を克服 北海道有数の畑作の農村として近代化進み 市街地の進展著しく・・・(以下略)。

【遠山房吉翁之像】・・・北海道知事町村金五書。裏面の説明板の概要。長野県出身。明治三十年28歳の時、本町元村に入植。明治33年官設芽室駅逓取扱人となる。総代、村会評議員、農会理事等の抗職を歴任。明治43年道議会議員に当選し、4期務める。昭和12年4月衆議院議員に当選。昭和14年3月帝国議会出席中急逝、時に69歳。昭和41年9月建立。

【高橋雄之助先生之像】・・・北海道知事堂垣内尚弘書。裏面の説明板の概要。秋田県生まれ、19歳の時に芽室町上美生に入地、本町農業の発展に努力。33歳で町議会議員、38歳で副議長。農協組合長、農地委員会長、中央会会長等を歴任。昭和40年から12年間参議院議員。道開発政務次官、農林水産、外務の委員長。昭和52年勲二等旭日重光章、正四位。昭和58年1月24日逝去、76歳。

【開拓記念碑】・・・北海道庁長官戸塚九一郎書。ウイキペディアによると1939年昭和14年頃に北海道庁長官ということから、その頃の碑か。裏面は読むことができなかった。

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