令和5年(2023)11月19日(日)北海道釧路市米町
釧路炭鉱の廃線跡を散策後、車に帰る途中に佐野碑園に立ち寄った。説明板には次のとおり記載されていた。このほか、たくさんの石碑があった。佐野氏紀功碑、丸太学校の跡、久寿里会所の跡、東北海道電信操業記念碑
【佐野碑園】
佐野碑園は、釧路を開くにあたり功績のあった佐野孫右衛門(さのまごえもん)
(1841-1889年)を顕彰した「佐野氏紀功碑」が立っていることから
「佐野碑園」と呼ばれています。江戸時代末期、この辺りに漁業と交易をすすめる「久寿里会所」があり、明治時代にはこの付近に釧路発の学校の佐野碑園(さのひえん)をすすめる「久寿里会所」があり、明治時代にはこの付近に釧路発の学校の
「丸太学校」や「電信分局」も建てられました。また、明治41年(1908年)に釧路に滞在した石川啄木がしばしば訪れた料亭「喜望楼(きぼうろう)」もこの地にありました。
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【佐野氏紀功碑】・・・内容的には刻まれている内容が多すぎてよくわからない。以下のリンクが参考になるが、ネットから概要を借用。「昭和10年に立てられたもので、江戸時代末期から明治初めにかけて、久寿里場所の請負人(漁場持)として釧路地方の開発にあたった佐野孫右衛門(1841-89)の功績を顕彰したものです。佐野家は新潟の寺泊から移って代々場所請負人を任じられてきましたが、孫右衛門は、昆布漁業振興、自費での道路開削、川湯の硫黄採掘事業も行い、釧路の発展に貢献が大きかったそうです。
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【丸太学校の跡】
明治八年、米町の聞名寺の住職永福法髄が寺の境内で寺子屋を開き、子弟の教育を始めましたが、これが釧路の児童教育のはじまり。明治十年ころ子弟も急増したためこの付近に丸太柱に丸太梁で釧路初の学校が建てられ、当時の人はこれを丸太学校と愛称した。
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【久寿里会所の跡】
江戸時代には「クスリ(久寿里)」と呼ばれていた釧路は、寛政十一年(1799)、この頃頻繁に接近してきた外国勢力に備えるため、松前藩から幕府の直接支配に代わった。これに伴いアイヌとの交易場所であった運上屋は会所と改称され、交易に加え旅宿所や漁業経営、行政機関としての機能も有した。佐野碑園は、この会所の一角に当たり、釧路発祥の地として親しまれています。
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【東北海道電信操業記念碑】
表面には標題のとおり刻まれ、右下には「日本電信電話公社釧路電気通信部」と刻まれ、裏面には次のとおり刻まれている。「碑文 明治17年10月25日東北海道に初めて札幌ー根室間電信線の架設をみ釧路・根室・厚岸・浜中・大津に電信分局が開設された。ここに電信操業100年の意義ある年に当たり、電信分局開設86年を記念しこのゆかりの地に碑を建て後世に残すものである 昭和45年10月25日 釧路電気通信部長 志摩奈良男」。
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