大友亀太郎役宅跡等

産業遺産

令和6年(2024)1月4日(木) 家からランニング(約8km)

 先日、本龍寺まで走った際、以前訪問した札幌村資料館(北海道札幌市東区北13条東16丁目)に大友亀太郎関連の石碑が充実していることを発見。転載させていただく。
 入口には大友亀太郎の「事績と大友堀遺構」に関する北海道遺産の説明板があった。

【札幌村記念館の説明板】
 「札幌市有形文化財及び史跡 札幌村・大友亀太郎関係歴史資料及び史跡[札幌村郷土記念館と指定文化財]札幌村は、大友亀太郎により、慶応2年(1866)から開拓がはじめられ、札幌開拓の先駆となり、その後、わが国の玉ねぎ栽培の先進地として発展しました。記念館は、この郷土の歴史を語り継ぐため、昭和52年4月、地域の人々によって開設された資料館です。大友亀太郎は、1834年に現小田原に生まれ22歳のとき、当時の疲弊した農村を救済し、復興・開発事業を行っていた二宮尊徳の門に入り、報徳仕法(農政事業)を学びます。25歳のとき、江戸幕府による領土保全の開拓政策にそって北海道に渡り、現木古内町と七飯町に御手作場(開拓農場)を完成させます。33歳のとき、その実績により蝦夷地開拓掛を命ぜられ、石狩原野の開拓に関する長期計画を立て、同行者10名を伴って慶応2年4月に伏古川の岸辺に入り事業に着手、まず、約4㎞の用水路や橋梁、道路などを当時の最高水準の技術・機器をもって整備します。それは報徳仕法にならって開発のための資本等を導入し、産業の育成を図るものでもありました。また、用水路は未開の大地にしるした開拓のくさびであり、現創成川の前身として札幌の街づくりの東西の起点となります。翌年、この地を札幌開拓の元村と定め開墾が進められ、周辺地区にも本州各県からの入植者が相つぎ悔恨も大きな広がりをみせ、明治4年、札幌元村は札幌新村と合併し、札幌村となります。その後、米国から持ち込まれた玉ねぎ栽培と販売が試され、明治16年に販売が成功して、本格的な栽培が普及していきます。昭和62年2月、記念館収蔵の開拓に関する大友亀太郎文書、玉ねぎ関係の農耕具などの歴史資料は札幌のそして北海道の発展を知るうえで貴重なものとして札幌市有形文化財に、記念館の敷地は大友亀太郎役宅跡として史跡に指定されています。札幌市・札幌市教育委員会」

【明治天皇行幸記念碑】
 この碑は令和元年に建てられたもの。左記のとおり刻まれており、裏面には「明治十四年八月三十一日 明治天皇は大友堀を中心に開墾された農業の実状をご視察になられました 令和元年十月 札幌村郷土記念館保存会 建立 題字札幌市長」と刻まれている。

【大友亀太郎役宅跡】
 上記のとおり正面に刻まれ、右の側面には「髙木圭助書」と刻まれている。碑の背面には、「御手作場開拓百二十年記念 昭和六十一年五月札幌村郷土記念館保存会建立」と刻まれている。

【大友亀太郎像と副碑】
 大友亀太郎の石像とその隣に説明の副碑があった。一部雪で覆われて読めなかったが、「歴史のあしあと札幌の碑」さんから転載させていただく。「

札幌開拓の先駆者、大友亀太郎は、天保五年(一八三四)に現在の神奈川県小田原市で生れた。二宮尊徳の門に学び「人の一生は金銀財宝に富めるにあらず、積善の道に如かず」を信念とした。安政五年(一八五八)に渡道し、慶応二年(一八六六)には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出するとともに石狩地方開拓の命を受け、札幌市東区(旧・元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街づくりの発端となった。明治二年(一八六九)これを開拓使に引き継ぎ、翌三年札幌を去つた。亀太郎が掘つた大友堀は、今日の創成川の基となつて街の中心部を流れ続けている。昭和六十一年五月 製作者 農民彫刻家 松田与一 題字 札幌市長 板垣武四 大友亀太郎像建立実行委員会 委員長 清水利信 [財団法人北海道報徳社 社長理事]札幌村郷土記念館保存会 平成二十二年十一月(複製)」

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