中山道(11新町宿~倉賀野宿)

中山道

令和6年(2024)4月28日(日) 新町宿~倉賀野(5.9km)
当日の総走行距離 19.9km 5時間20分

 本庄市のホテルをチェックアウト後、中山道を進む。荷物が重たく、そして今日は暑い。歩き始めてすぐに旅籠屋を発見。今は普通の人家だが、小林一茶が泊まったところだ。

【高瀬屋跡】(説明板)
 小林一茶宿泊の高瀬屋跡 江戸後期の俳人・小林一茶は、たびたび江戸と信濃を往来していました。『七番日記』の文化七年(1810)5月11日に次の記述があります。『前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前四時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄附は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より十二文を寄進することになった』
手枕や 小言いうても 来る螢
とぶ螢 うはの空 呼したりけり
山伏が 気に喰ぬやら 行螢  その時に一茶がこれらの句を詠みました。

 そして少し歩くと、小林本陣であった。説明板は次のとおり。

【小林本陣】(説明板)
 新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(1804~44年)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣脇本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴りには、金沢藩や甲府藩の陰影が保存されています。延享2(1745)年の「落合図」が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けて記されています。元禄4(1691)年の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。 
 

 新町からは赤城や妙義山の山が見え始める。

 スリーデーマーチの碑を過ぎ、伊勢島神社、高速道路をくぐると烏川の河川敷をしばらく走る。日光が遮られず暑い。

 柳瀬橋を渡ると高崎市に入り、倉賀野宿である。

 

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