涓涓洞・宮崎濁卑の碑

石碑・銅像・胸像(歴史上の人物)

令和6年(2024)5月12日(日) 帯広市大型量販店駐車場~帯広の森~三の沢1遺跡~帯広の森百年の礎~涓涓洞・宮崎濁卑の碑~神理教北門神社・チョマト―公園

 市街に入ると、また森が広がり、古い家があり、説明板があった涓涓洞(けんけんどう)というそうで、ここは津田公園というそうだ。思いもがけず史跡を発見しラッキー。

【涓涓洞】(説明板概要)帯広市西23条南2丁目
 明治期に河西郡伏古村に入植した津田禎次郎が築いた建物。氏は慶應元年上総国山武郡片貝村(現在の千葉県九十九里町片貝)に生まれ、明治法律学校に学び、明治28年同校卒業後、東京の弁護士事務所、長野の信濃日報主筆などを務め、師、岡本監輔を盟主として組織した千嶋議会に加わり千島に向かったが、その議会が解散し、根室から引き返し、その途中十勝を視察し一端帰郷。明治29年11月、改めて伏古村の15号寄り十勝川のほとりに入植。明治35年伏古村村会議員などの公職を歴任し、産業開発、教育振興に貢献。明治36年には伏古水田土坑組合を実現。大正2年、南1線72に転住、はなれで悠々自適にすごした。また、氏は晩成社の三患部依田勉三、鈴木銃太郎、渡辺勝や宮崎濁卑とも交友を深めた。詩文に秀で、自ら涓涓と号し、この「はなれ」も涓涓洞となずけた。氏は大正15年4月27日に現在地で死去した。(以下、略)

奥には宮崎濁卑の碑があった。

【宮崎濁卑之碑】(判明できるところと隣の説明板から概要転載)
 正六位勲六等岩谷英太郎撰 宮崎濁卑君之孫東氏建立 同氏は嘉永元年5月富山県西栃波郡小勢村に生まれ、明治12年7日渡道 明治18年、札幌県勧業課職員となり、同年4月、県が十勝伏古村伏古別に開設した土人開墾事務所のアイヌの人々の勧業指導員として着任。氏の受け持ち地域は、伏古別、下音更、姥別の三か所であった。十勝での勧業指導は明治21年度で打ち切られたが、氏はそのまま伏古村に住みつき、水田による伏古村開発を念願とした。その後伏古村村会議員などを歴任、明治36年7月津田禎次郎氏と相謀り伏古水田土坑組合を設立、評議員に選任された。また、氏の熱心な勧誘によって多数の富山県人が来住、これらの人によって西帯広の農業地帯が築かれた。大正6年4月13日病没 享年70歳 大正11年10月13日 宮崎東建立

 

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