青梅街道1(新宿追分~中野坂上)

その他旧街道・旧道

令和6年6月27日(木) 新宿追分~中野坂上(新中野駅) 約2.5km

 今日の朝は、青梅街道を走ることにする。二日酔いで調子悪く1駅の中野坂上過ぎの新中野駅で街道散策をやめる。
 新宿副都心のビル街を望みあげながら街道を進む。右に行くと青梅街道。

 道の向こうにお寺だ。常泉院というそうで、日蓮宗寺院、寛文年間に日得上人が創建した。ここには、左手に子を抱き右手に宝珠(一般には蓮華である)を持った木造素木造りの鬼子母神像が祀られている。この像は、江戸時代からしばしば出開帳がおこなわれ、成子の子育鬼子母神として信仰を集めたものだそうだ。

 中野坂上の宝仙寺を訪問した。境内には、「中野町役場跡碑」と「石臼塚」があった。

【法仙寺】
 『武州多摩郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起』によると、宝仙寺は 平安後期の寛治年間(1087~94)源義家によって創建されました。
 このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのでした。
 その地は 父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地でこの造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である是を以って鎭となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と言いおわるや白狐となって去りました。
これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺と号したと伝えられます。
 また、鎌倉時代には相模国大山寺の高僧願行上人が当寺を訪ねられ、本尊の不動明王像をご覧になってその霊貌の凡常でないことに驚かれ、あやまって尊像を穢してはいけないと厨子の奥深くに秘蔵せられました。
平素の拝礼には別の不動明王像を刻してこれに当てさせました。
 その後、室町時代には当寺中興第一世聖永が現在の地に寺基を遷しました。
江戸初期の寛永13年(1636)には三重塔が建立され、江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。

【石臼塚由来】
 中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
 そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
 その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。
 それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。
 平成18年(2006)12月吉日 献額 中野区商店街連合会 社団法人 中野法人会

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