山形城・最上義光公勇戦の像

城郭・チャシ

令和6年(2024)7月7日(日) 山形駅前~山形城~豊烈神社~水野三郎右衛門元宣~山形聖ペテロ教会~山形県旧県会議事堂~山形県旧県庁舎~専称寺・駒姫説明板~市街史蹟~男山酒蔵

 山形旅行最終日は山形市内の散策。当初は天童市までJRで行って走って帰ってこようと思ったが、二日酔いにつき、山形市内にとどめることとする。山形城址は、駅の北西の近くにあり、すぐに到着した。。

【山形城】公式ホームページから転載
 時は南北朝時代。足利尊氏あしかが たかうじと同じ清和源氏せいわ げんじの流れをくむ斯波兼頼しば かねよりは、北朝勢の将として延文えんぶん元年(1356)に、羽州探題うしゅう たんだいとして山形に入ります。ここを政治の拠点と定めた兼頼かねよりは、翌年から山形城の築城を開始し、寺社の復興などを中心とした宗教政策によって民心の安定をはかり、山形の基礎を築きます。
その後、子孫は室町幕府より「最上屋形もがみやかた」の称号を賜り最上氏を名乗るようになります。そして兼頼かねよりから約170年後の天文てんぶん15年(1546)に、最上義守もがみ よしもりの嫡男として、最上家11代当主となる最上義光もがみ よしあきが誕生しました。
 幼少の頃から武勇に優れていた義光よしあきでしたが、最上家内の内紛や近隣大名との確執など、青年時代はさまざまな困難に見舞われます。しかし16世紀の末には現在の山形県の村山・最上地域を治めるに至りました。
 慶長けいちょう5年(1600)、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いで義光よしあきは東軍へ加担し、「北の関ヶ原」と呼ばれた慶長出羽合戦けいちょうでわかっせんへと突入します。豊臣政権の五大老であり、西軍の有力大名であった、上杉景勝うえすぎ かげかつは、重臣である直江兼続なおえ かねつぐに2万5千の軍勢を預け山形へと攻め入り、支城の長谷堂城はせどうじょうへと猛攻を仕掛けました。全力で守る義光よしあきとの一進一退の争いは半月にも及びましたが、関ヶ原での東軍徳川方の勝利を知らされた直江兼続なおえ かねつぐは退却します。その後、義光よしあき家康いえやすから57万石の領地を認められ、実質の石高が百万石とも言われる領国を築きます。
 天下人・豊臣秀吉とよとみ ひでよしから「羽柴出羽侍従はしばでわじじゅう」の地位を与えられ、東北の有力大名に位置付けられました。また、徳川家康とくがわ いえやすとは歳が3歳差と近く、不思議とウマが合い、親しく付き合いました。家康いえやすが好きな鷹や名馬などを贈り、大変喜ばれたということです。
 隣国のライバルである伊達政宗だて まさむねとは、最愛の妹・義姫よしひめを通した叔父・甥の関係でもありました。天正てんしょう14年(1586)の大崎合戦おおさきかっせんのように、時には表だって敵と味方に分かれて争い、時には水面下で激しい一触即発を繰り広げるなど緊張関係もありましたが、豊臣秀吉とよとみ ひでよしの命による天正てんしょう20年(1592)の朝鮮出兵のための九州名護屋在陣中きゅうしゅうなごやざいじんちゅうは、過去の対立を水に流して互いに語り合っています。慶長出羽合戦けいちょうでわかっせんでは政宗まさむねの援軍により形勢を建て直しました。  
山形の城下町は、山形城よりも標高の高い場所に広がっています。これは、馬見ケ崎川まみがさきがわ扇状地せんじょうちという地形を活かし、湧水によって町の井戸や田畑を潤すことと、低湿地を要害として防衛に活かすことを優先したものと言われています。
山形藩の初代藩主となった義光よしあきは、商業を大いに振興し、商人の往来する羽州街道うしゅうかいどうは南の上町うわまちから入り、五日町いつかまち八日町ようかまち十日町とおかまち横町よこまち七日町なぬかまち旅篭町はたごまち六日町むいかまち四日町通りよっかまちどおり、北方の宮町みやまちへ。また、職人町として材木町ざいもくまち銀町ぎんまち蝋燭町ろうそくまち塗師町ぬりしまち檜物町ひものまち桶町おけまち鍛冶町かじまちを置き、商業都市としての発展に寄与しました。
義光よしあきの死後に起きた最上騒動ののち、元和げんな8年(1622)に最上家は改易となり、山形藩は鳥居忠政とりい ただまさによる統治が始まります。忠政ただまさは山形城の大規模改修を行い、ほぼ現在の姿の原型を築いたほか、寺院の配置換えや検地、現在の文翔館ぶんしょうかん周辺を流れていた馬見ヶ崎川まみがさきがわの流れを変える大工事を行いました。
鳥居氏が世継ぎに恵まれなかったため、代わりに2代将軍徳川秀忠とくがわ ひでただの子の保科正之ほしな まさゆきが山形に入封します。正之まさゆきは7年間の治世のなかで精力的にまちづくりを行い、領内の検地や流通網の整備、馬見ヶ崎川まみがさきがわの決壊による洪水や凶作に苦しむ領民たちへの対応などを行い、名君と呼ばれました。
正之まさゆきが会津へと転封になった後は、松平氏から堀田氏・秋元氏・水野氏などと全て譜代大名が城主を担うようになりました。
 かつて「最上家57万石」を誇った山形藩は、幕末の頃には5万石まで減少し、大城郭であった山形城の維持は、歴代の城主たちにとっては知恵の絞りどころだったようです。

【最上義光公勇戦の像】
 慶長五年(西暦1600年)の秋九月、怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将・直江山城守のひきいる二万三千余の大軍をむかえ、自ら陣頭に立って指揮奮戦し敵を撃退してよく山形を死守した山形城主・最上義光が、決戦場・富神山にむかって進撃せんとする英姿であり、鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。
右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻んであります。銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどったものであります。最上義光公顕彰会

 山形城の敷地内かどうかわからないが、最上義光歴史館があり、その前に最上義光公の像が立っていた。

【最上義光公像】山形県山形市大手町1-53

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