令和6年(2024)11月24日(日) 帯広市西20条南1丁目
帯広市の国道38号線の南側、帯広川との間、栄通と交差点の近くに石碑を見つけた。ここはいつも夜に通るが気が付かなかった。帯広でも水稲が作付けられていたのだ。
【伏古水田相互組合記念碑】
石碑の表面には上記のとおり刻まれ、その下に「帯広市長 田本憲吾書」と添えられていた。裏面には次のとおり沿革が刻まれていた。「沿革 この地域は行政上三十区と呼ばれ帯広川以北十勝川に至る十号より七号の区間で明治二十五件 尾山久兵衛等により 開拓が始められ明治三十三年には既に西小学校や西真寺が所在した地域であった大正五年六月元藤了観師が西真寺の二代目住職を継がるるや熱心に造田を奨め自ら水利計画を樹て鍬を握りその熱意に当時の人々は水田坊主と尊称した。大正八年野原興三次郎 長村定 池田勘吾等発起し伏古水田相互組合を結成し翌大正九年この碑より三百米上流で帯広川を土俵にて堰止め水田用水を開発するに及んで造田は急速に進み未開の湿地もことごとく水田に開発され北一線以南は一望の沃田と化した以来組合は歴代役員によって熱心に運営され組合員も亦 能く励み時代の要望にこたえて食糧増産に貢献した 昭和三十八年帯広市の工業団地造成計画による用地買収に応じ結成以来四十有余年の組合を解散し自らの歴史を閉じ 組合員は愛惜の念を残して離散したのである。昭和五十二年に至り 昭和十二年当時の役員野原豊吉外八名の名儀で帯広川の川床に残存せる組合の土地が道に買上げられ ここに基金を得たので多年待望の記念碑を建立し 永く水田開拓の闘魂をとどめ西帯広発展の礎石の地であることを録するものである 昭和五十三年三月三十日 伏古水田相互組合 伏古水田相互組合記念碑発起人 (歴代組合長 発起人代表 企画碑文 世話人)」
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