琴似屯田兵顕彰碑等

石碑等(開拓記念碑)

令和6年(2024)12月29日(日)北海道札幌市西区琴似二条7丁目1

 琴似屯田の森には、屯田兵関係の石碑が数多く並んでいた。

【琴似屯田兵顕彰碑】
 黒御影石にの罷免の表面には「琴似屯田兵顕彰碑」と刻まれ、その下に「札幌市長 桂信雄」と添えられている。碑の背面は次のとおり刻まれていた。「北海道最初の屯田兵として北辺警備と本道開拓の重責を担い明治八年琴似屯田兵村を創始した先人の業績を讃え大正十三年琴似神社境内に琴似兵村五十年記念塔が建立された この由緒ある記念塔は時代の変遷と永い年月を経て老朽化が著しく青銅製主塔の亀裂による腐食並びに台座の損傷等周辺自然環境の変化に伴い倒壊のおそれが生じたのでやむを得ず平成十年九月解体撤去した 然しながら今日の当地域発展の礎を築いた琴似屯田の苦難と栄光の歴史を顧みその遺徳を末永く偲ぶため改めてここにその名を刻しこの碑を建立した 平成十一年九月吉日 琴似屯田子孫会」と刻まれ、その中央部には子孫である多くの氏名が刻まれている。

【屯田兵本部址】碑
 次に「屯田兵本部址」碑が建立されていた。前記事の説明板によると「開村五十年を記念して、大正十三年(一九二四年)現在の西消防署琴似出張所北東角に建立される」とのこと。

【紀念碑】
 石碑群の中央には、三角錐状の「紀念碑」が建立されていた。次のとおり碑文が刻まれていた。「明治二十九年朝廷改軍政新置第七師団於北海道以管屯田兵於是北門之防備始成矣而琴似屯田實爲之端六年定屯田制募東北諸縣壯丁八年始編行伍稱屯田兵第一大隊第一中隊爾後布置屯田若干所皆取範焉則所以大成者安得無諸士率先奉公之誠蘊於積年之間而顕於今日乎十年西陲亂属別働第二旅團轉戰乎薩隅之間有功篆賞十四年 聖駕北巡故能久親王代巡賜若干金二十四年三月編豫備役二十八年有事干清國應充員召集次東京會和成五月旋軍尋編後備役村在札幌西北街衛相接兵民同里田園穣穣穀〇桑麻莫不熟欝乎爲楽郊矣闢地三千五百町有寄戸四百五十餘在兵籍者二百四十戸而其三十二家族発寒村頃日相議建紀念碑來請文乃作銘曰 居則良民 出則干城 殖産竭身 以答聖明 維斯子孫 永保盛名 明治三十年一月 従三位勲二等陸軍中将男爵永山武四郎篆額撰文横山順倫書」
 台座の背面の金属板には、次のとおり刻まれていた。「明治二十九年、朝廷 軍政を改め、新たに第七師団を北海道に置き、以って屯田兵を管せしめ是に於いて北門の防備始めて成れり。而して琴似の屯田之が端となる。六年、屯田制を定めて東北諸県の壮丁を募り、八年、始めて行伍を編して屯田兵第一大隊第一中隊と称す。爾後、屯田若干を付置する所、皆 範を焉に取る。 則ち大成する所以は、安んぞ諸士 率先奉公の誠 積年の間蘊むこと無くして今日に顕れんや。十年、西陲の乱に別働第二旅団に属して、薩隅の間に転戦し、功有りて篆賞せらる。十四年、聖駕 北巡し、故能久親王巡りて若干金を賜う。二十四年三月、予備役に編せらる。二十八年、事 清国に有りて充員召集に応じ、次いで東京の会和成り、五月、軍を旋し、尋いで後備役に編せらる。村は札幌の西北に在り、街衛相い接して兵民 里を同じくし、田園は穣々として穀〇と桑麻と熟欝せざる莫く、楽郊為り。闢くこと三千五百有町、寄戸四百五十余、在兵籍者二百四十戸にして其の三十二家族発寒村なり。頃日、相い議して記念碑を建てんとし、来たりて文を請う、乃ち銘を作りて曰く 居りては則ち良民 出ては則ち干城 殖産に身を竭くして 以って聖明に答う 維れ斯の子孫 永く盛名を保てよ 明治三十年一月 従三位勲二等陸軍中将男爵永山武四郎篆額撰文 横山順倫書 (書き下し 北海道教育大学札幌分校教授 後藤秋正)」

【陸軍屯田兵第一大隊第一中隊本部之趾】
 紀念碑の隣は、「陸軍屯田兵第一大隊第一中隊本部之趾」碑であり、正面には左記のとおり刻まれ、その下に「八十四翁安孫子倫彦 書」と添えられている。碑の背面は判然としないが、次のとおり刻まれていた。一部転載する。「紀元二千六百年建之 記 明治八年五月 移住當隊編成 明治二十四年四月 豫備役編入 明治二十九年四月 後備役編入」。
 碑の前の説明板には、「陸軍屯田兵第一大隊第一中隊本部之趾 記(紀)元二千六百年を祝して、昭和十五年(一九四〇年)現在の西区役所の北西角付近に建立される。(西区役所は中隊本部敷地跡にあたる。)」と記されている。

【琴似屯田百年記念碑】
 最後の石碑は琴似屯田百年記念碑である。背面には「琴似屯田百年記念事業期成会 昭和五十年九月 会長 宮坂作雄」と刻まれている。

【開拓の歴史のみち】
 説明板には、次のとおり刻まれていた。「琴似屯田兵村道の跡 屯田兵村は、明治7年現在の道々琴似停車場線を中央道路とし、幅11から18メートルの区画道路(黄色)が設けられ、その両側に兵屋がたてられました。区画道路は現在も市道として残されています」。そして説明板の背面には、当時の様子の写真が掲載されていた。

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