音更町コタン

石碑等(開拓記念碑)

令和7年(2025)3月8日(土)音更町大通6丁目~武儀団体入植地(東音更)~音更町寺子屋教育発祥の地~音更町コタン(柳町17丁目)21.4km 3時間12分

 音更町内を行ったり来たりであるが、最後に音更町コタンを訪問した。ここはいつも車の中から見えていたが、自分の足で訪問したかった。ここには説明板と石碑が三つ設置されていた。

【音更町コタン跡】説明板
 音更コタン跡
 北海道庁は、明治20年から明治21年にかけて、散在するアイヌ民族を半ば強制的に国道241号線の北6線から北9線までの一帯に移住させ「音更コタン」を形成しました。明治32年、明治政府は「旧土人保護法」を制定して、勧農政策として一戸当たり約5haの土地を給与し定住を計りました。
 しかし、狩猟漁労民族の伝統から、農耕には意欲なく、土地を手放してしまい、勧農政策は失敗に終わりましたが、アイヌ民族が十勝開拓期に果たした役割は大きいものがありました。また、大正5年当時62戸189人が居住していました。その後昭和5年当時24戸(河西支庁調査)、昭和25年当時28戸140人(音更村調査)が居住していました。
 開進地区の創設期を支えた人たち
 音更村出身のアイヌ民族である早川政太郎は、苦労しながら官吏になる試験に合格し、網走刑務所の看守となった後、故郷に戻ってきました。昭和6年、全道アイヌ青年大会において「アイヌ族よ起て」を発表し、アイヌの児童が普通教育を受けることを必要性や保健衛生の側面から、住宅環境の抜本的改善について、アイヌ民族の自覚的努力の促進を含め、強く訴えました。
昭和8年、開進区が設立され、所在区長となった早川政太郎は戦争で主人を亡くした和人の家族を温かく地区に迎え入れるなど、地域からの信望も厚く、亡くなるまでの12年間、区長として尽力しました。
 アイヌ民族出身の区長は、二代目の西川幾久蔵、三代目の細田庄次郎と続き、その後に続いた歴代の和人区長たちもアイヌ民族と相互に協力・活躍しながら開進地区の創設期を支え、現在に至っています。音更町教育委員会 平成29年3月

【故中村要吉翁顕】
 表面に上記のとおり刻まれ、裏面に文字が刻まれていたが、逆光で判然としなかった。Xで、音更町議会議員の投稿で情報があったので、転載する。中村要吉翁は明治時代にアイヌの戸籍化や生活改善そして教育に尽力されたアイヌ出身の方。アイヌ名はイベツカレといい、セタ(上士幌町勢多)で生まれて、明治17年に下音更に住み始めました。音更のアイヌ民族の生活向上を目指して、様々な活動を行い、北海道旧土人保護法による給与地の請願にもとりくみました。またアイヌ民族の子供達のための学校設置に奔走し、自宅に「特別教育所」を開設しました。この学校はその後庁立音更尋常小学校となりました。この功績が認められ1908年に道庁から教育功労の表彰を受けました。晩年は同族の権利向上などに尽力し、昭和39年にはその功績が讃えられ、国道241号線沿いの級コタン跡に同碑が建立されました。https://x.com/Holly_knight_9/status/1793551153516687736

【喜多章明先生之碑】
 表面には上記のとおり刻まれ、その横に添えられている文字は判然としなかった。裏面には、次のとおり刻まれていた。一部は判然としなかった。「喜多章明先生は徳島県海辺郡下木頭村に生れ 大正七年若くして来道し帯広町役場書記を振り出しとして長く公務につかれ大正十一年以来旧土人保護委員としアイヌ民族と歩みを共にせられました 以来五十余年の久しきに亘り同族文化経済の向上のために身を捧げられた 其の間十勝旭明社の創立経営保護・・の改善に貢献し共有林の造成等ウタリ生活の各般に渉る施設経営・・・向上の功績は実に大なるものがあり特に先生の指導恵沢に負う処が・・・ 開進古潭の一同は先生の遺徳を敬慕し 此に碑を建立し、功をたたえるものです 昭和四十三年十一月十七日 開進地区ウタリ代表者 早川ミヨ外一同

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