岩見沢市栗沢地区由良の石碑・揚水機

産業遺産

令和7年(2025)5月5日(月祝) 岩見沢市栗沢支所~くじら山53m~道道817号線~クラインガルテン~由良地区~耕成地区~砺波(となみ)~スタート地点 約21km 3時間

 クラインガルテンから北上するとすぐに由良地区だった。由良神社があるところに石碑などがあった。神社の外に100年記念碑、神社の中に記念碑がもう一つあった。

【由良開基100年記念碑】
 立派な墓石のような石に中央に上記のとおり刻まれ、「国務大臣 北海道開発庁長官 北修二書」と添えられていた。右側が寄附者御芳名、左側が碑文だった。「碑文 明治二十七年香川県人熊野茂七氏等が各三万坪の貸下げを受けたのが由良入植の始まり。その後二十二戸が入植、千古不抜の原始林に酷寒炎暑、困苦欠処に星霜百年を閲す。由良の地名は開拓者の郷里香川県綾歌郡綾上村字由良から名付けられた。苦闘幾十年筆舌の艱難辛苦を経て大業を成し遂げ、黄金波打つ美圃の地と成す。願うに開墾の成果を礎に丘陵地の畑作から有畜、水田化へと変遷、有数の穀倉を誇るに至る。信仰精神による堅忍不抜の志と協同一致の力は、更に産業の振興を成し大成響導に心血を注ぐ。茲に開基百年を迎え永安楽土の建設に邁進せんと誓う時、先人の偉業を偲び感慨無量なるを覚える。現在の繁栄に謹んで奉謝し、以って後世に伝えんとこの碑を建立する。平成五年十一月六日 由良開基100年記念事業実行委員会」

【記念碑】
 縦形の石碑の上部に右から上記のとおり刻まれており、その下に次のとおり碑文が刻まれていた。「小平 忠 題額 渺々たる石狩平野を西に望む栗沢の丘陵由良地区三百五十余町歩の開田が実現した由良は明治二十七年四国から移住した熊野茂七川原一郎等二十三名の人達により熊の棲む原始林から開畑された由良の名はこの人たちの郷里香川県綾歌郡綾上村の字名である爾来六十余年畑作が続けられたが近年知力の減耗甚だしく営農の危機に瀕した然るに天祐があった即ち桂沢ダムを水源とする総合美唄地区国営土地改良事業の計画に当り由良を田化せんとする百二十戸関係農民の熾烈な悲願が容れられて標高十八米乃至七十米の波上の高地は三段の揚水により荒廃寸前から年間一万石の良米を産する美田と化したのである事業は国営と団体営に区分第一第二揚水機場を含む北海幹線を起点とする由良幹線は国営として北海道開発局札幌開発建設部が昭和三十四年着工し費七千百五十万円をもって三十五年完工由良幹線より分岐する第一支線第二揚水機に接続する第二支線同支線から三段揚水を行う揚水機二ヶ処及び区画整理等は団体営として北海土地改良区が昭和三四年着工第一第二支線及び揚水機二ヶ所は工費二千三百三十余万円をもって三十六年に区画整理は工費八千六百二十余万円を投じ三十七年完工した国営団体営合計総工費は一億千百余万円のこれに桂沢ダム市来知及び北海幹線等の間接工費を合すれば実に三億六千二百余万円の巨額に上る将に大事業と云うべきであるこれを克く成し得た所以のものは農林大蔵両省北海道開発庁北海道等関係官庁の英断と北海土地改良区栗沢農業協同組合を中心に団結した関係農民の不変の熱意と融和であった茲に当時衆議院議員とし事業実現に尽瘁された小平忠氏の名を逸してはならない開田竣功に当たり沿革及事業の梗概と功労者の名を録し記念碑を建て永く後代に伝える(以下略)

【由良揚水機】
 由良神社の境内に揚水機が設置されていて、その横に碑文があった。「碑文 水は高きところより低きところに流れるの理によれば、石狩平野を眼下に眺めるこの高台地は永久に水田は望めなかった。然るに先覚者の英知により発想の転換がなされ揚水機による三段揚げによって昭和三十五年より三百五十二・七ヘクタールが造田され黄金波打つ美田となり農業経営が安定した。爾来三十年を経て揚水機もその任を終えるに至り、ここにその労を謝し永く保存するものである。平成元年九月北海土地改良区 由良揚水機支線組合 施設概要 機場名 由良第一揚水機(以下略)

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